展示解説はすっきりした文章で深い意味を伝えており、子どもを連れてきた親御さんたちも熱心に見る姿が印象的。
「だるまちゃん」は、ロシア(当時ソビエト)の絵雑誌で出てきたマトリョーシカがヒント、
郷土玩具を主人公にしながら民族主義的押しつけがましさがないところに魅力を感じたそうです。
戦後日本、外国のものをありがたがる風潮の中、敢えて「だるま」にしたとのこと。
そしてところどころに添えられた、かこさとし氏のメッセージも魅力的でした。
図録はないようで、売店で文庫の『未来のだるまちゃんへ』を購入、勢いで一気読み。
今日予定していた作業は終わらなかったけど、読んで良かったです。
かこさとし著『未来のだるまちゃんへ』2016年、文春文庫
(2014年文芸春秋刊の文庫版)
冒頭はこんな風に始まります。
敗戦の時、僕は十九才でした。
僕は「終戦」と言わないで「敗戦」と言うのですが、それは戦争に負けて、てのひらを反すように態度を変えた大人たちを見て、ものすごく失望憤激したからです。
そういう自分も軍人を目指していたことを振り返り、しかし、視力が悪く軍人にはなれず、それで工学の道を選んだと。
そして敗戦。軍人を目指した仲間はみな死に、生き残ってしまった。
「自分は何をすればよいのか。少しでも償いが出来るのか」
大人はもう信用できない、飽き飽きだ。自分もその一員だった。大人ではなく、せめて子どもたちのためにお役に立てないだろうか。せめて自分のような後悔をしない人生を送るよう、伝えておきたい。
だんだんとそう考えるようになりました。
これから生きていく子どもたちが、僕のような愚かなことをしないようにしたい。子どもたちは、ちゃんと自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の力で判断し行動する賢さを持つようになってほしい。
その手伝いをするのなら、死にはぐれた意味もあるかも知れない。
福井の里山で遊んだ子供時代、絵を描く楽しさを教わった人、東京への転校、
飛行機乗りになりたくて成れなかったこと、自分で雑誌を作って俳句を描いたこと、
空襲で家は全焼、兄の死、敗戦、
東大で演劇研究会に入ったが工学部のせいか裏方しかやらせて貰えずそれでも頑張ったこと、
再び絵を描き子ども相手に紙芝居をやったこと、
川崎のセツルメントで子どもと向き合って学んだこと、
絵本を出してもらえるようになったこと。
最終章は「これからを生きる子どもたちへ」。
見取り図を描くように絵本を描いているということ、
そのために綿密な調査をしていること、
『万里の長城』は30年かかったこと、
アインシュタインをとりあげた『がくしゃもめをむくあそび』で原爆や原発のことに触れたが廃棄物の処理費用や事故時の対応などが調査してもデータがなく疑問に思ったこと、
「子ども向けに原発のすばらしさを伝える本」を頼まれ「喜んで協力するからデータをくれ」と伝えたら連絡がこなくなったこと、
「戦争」を描いた絵本を出したいが「何故おこるか?」には「経済」を理解しないといけなくまだできないこと、
「僕自身、敗戦後七十年近く経ったのに、的確な「戦争」の絵本、非戦の絵本を描く見取り図ができていないのが恥ずかしいかぎりです」。
生きるということは、本当は、喜びです。
生きていくというのは、本当はとても、うんと面白いこと、楽しいことです。
もう何も信じられないと打ちひしがれていた時に、僕は、それを子どもたちから教わりました。遊びの中でいきいきと命を充足させ、それぞれのやり方で伸びていこうとする。子どもたちの姿は、僕の生きる指針となり、生きる原動力となりました。それを頼みにして、僕は、ここまで歩いてきたのです。
だから僕は、子どもたちには生きることをうんと喜んでいてほしい。
この世界に対して目を見開いて、それをきちんと理解して面白がってほしい。
そうして、自分たちの生きていく場所がよりよいものになるように、うんと力をつけて、それをまた次の世代の子どもたちに、よりよいかたちで手渡してほしい。
どうか、どうか、同じ間違いを繰り返すことがないように。
心から、そう願っています。
読み終えて改めて「かこさとしのひみつ展」を想うと。
幼少期の絵日記から始まり、
サラリーマンをしながら紙芝居などで子どもと向き合い生きる意味を探す姿、
色々な知識を深く調べて描いた見取り図のような絵本、
展示場の中央の床にはけんけん遊びの模様が描かれ、子どもたちが遊んでいる。
会場全体が彼の人生の絵物語のようだった気がします。
自分も色々あって、また本も集中して読めない状態だったりしましたが、一気に読み切ることが出来ました。
1989年に、手塚治虫さんの『ガラスの地球を救え』を読んだ頃のことを思い出したりもしました。
たくさんの刺激をいただいて、感謝しています。