まず、1988年1月23日のノートの話の続きです。
フロイトの後は、パスカルです。ここからパスカルが多くなります。
「盗み、不倫、子殺し、父殺し、
すべては徳行のうちに地位を占めた
ことがある。ある男が水の向こう側に
住んでおり、彼の主君が私の主君と
争っているという理由で、私は彼とは
少しも争っていないというのに 彼に私を
殺す権利があるということほど滑稽な
ことがあるだろうか?」
「ある人は、正義の本質は立法者の権威であると言い、
他の人は君主の便宜であるといい、また他の人は
現在の習慣であるという。そしてこの最後のものが
最も確かである」
「理性だけに従えばそれ自身正しいというようなものは何もない」
「習慣は、それが受け入れられているという、ただそれだけの理由で、
公平のすべてを形成する」
パスカルの話は「立野の三原順メモノート(14)
パスカルと「夢をごらん」とグレアム」
の話とかなりかぶります。メモノートに書いた辺りの事は、
10年前から思っていた事なんですね。メモノートでも触れていますが、
「理性だけに従えばそれ自身正しいというようなものは何もない」
というのは立野にとってパスカルのキーフレーズの一つです。
合理主義の限界を的確につく言葉だと思います。
ただ、パスカルを読んだだけではわからなかった気がします。
後にケネス・バークを読んだり、経済学に触れるうちにわかってきたことです。
経済学の講義の最初に、「広く人間の合目的的行動に関する学問」
と説明されました。このあたりがかなりヒントになりました。
要するに、合理主義は、ある目的のためにどのような
手段を取れば良いかを効率という観点から決めていこうとする考え方です。
経済学の場合、目的は「利潤の最大化」でしょうかね。
しかし、例えば「人生の目的」って何でしょうか?
中にははっきりと語る人もいるかも知れませんが、
立野はこのあたりは実存主義的な考え方になっています。
そもそも目的が決められて生まれて来たわけではないという認識です。
では、どういう目的で生きれば良いのか?
そう考えたとき、一つのことに気づきます。
目的がはっきりしている時なら、合理主義は
その手段をどうすれば良いかを教えてくれる。しかし、
何を目的にすればよいかについては、合理主義は何一つ答えてくれない。
で、立野の「合理主義は目的そのものについては語り得ない」
という考え方が、パスカルの
「理性だけに従えばそれ自身正しいというようなものは何もない」
というフレーズに対応する気がするのです。
そして、(パスカルはまさに合理主義の時代を生きた訳ですが)、
合理主義がつまるところ何が正しいかについて何も定めないことにいち早く
気づいてしまったのだと想像しました。
パスカルはそこから、「何が正しいかについて人間が定め得ないことが、
まさに神の存在を証明する」という方向に行ってしまいます。
ケネス・バークはおそらく「人間はどのように目的を決めていくのだろうか」
という「動機の働き」に関心を持って行ったのだと思います
(おそらく、となってしまうのは、結局ケネス・バークの「動機の文法」を
読んでいないもので^^;)。
しかし、このように合理主義が本質的に目的を語り得ない事が
認識されないまま、
「合理的」という言葉が一人歩きして、合理的であること自体が目的化して
いるような状況は現在も続いているのかもですね。
10年前の立野が何故フロイトとパスカルを並べて書いたのかは謎ですが、
こうして並べてみると「超自我」と「習慣という基準」が
認識が近いのかも知れないと思いました。
たとえば、多数決というものの決め方を盲信している人は多いですよね。
多数決は民主主義の理想とも言えないだろうし、
合理主義の理想とも言えないだろうと思うのですが、
多数決でものを決めればみんなが納得するというだけで
公平のすべてを形成している訳です。
(ただどうやら、多数決への盲信は日本が特にひどいらしいと
感じさせる話を聞いたので、そのうちまた書くかも)。