ここ数年この時期になると精神が不安定になりがちです。 昨晩は探しに旅に出る夢を見ました。
いつか黄水仙の花を探しに行くかも知れません。
妙なことを書いたまま2日ほど日記をサボって、 もしかして心配された方、ごめんなさい。 確かにここ数日は酒量が増えていましたが、 後輩と飲みに行って騒いでたりしたのです。 今は少し元気です。
明日の晩はおそらく徹夜で飲みカラなので、 なるべく日記をアップしてから行こうと思います。
さて、いきなり話が飛びますが、某さんとのメールで、立野が
「足首のくびれ具合は、やっぱり成熟した女性の方が綺麗だと思います」などと書いたところ、今度は「そうか、ロリじゃなくて足フェチだったんですね?」と言われ、再び爆死してしまいました (^^;)。そう言えば、ずいぶん昔にチャットで同じような会話があって、 なっちーに「たてのっち、脚フェチ?」とか言われたような…(^^;)。
正直に書きますが、確かに女性の脚は好きです (^^;)。 見ているだけで幸せな気分になります。 でも、脚フェチというとストッキングが好きな人が多いようですが、 立野は生足の方が好きです。冬でも生足というと女子高生を連想しますが、 高校生くらいだと硬そうで、やっぱり脚は成熟した女性が…。
#こんなこと力説していていいのかな?? (^^;んで、ルーズソックスの話になったりします。 立野は特にフェチでもアンチでもないのですが…。 昔、立野が高校生の頃、
「制服の靴は足元がわざとダサく見えるように作られているとしか思えない」と力説する女子高生がいました。 その時はよく分かりませんでしたが、 ルーズソックスを見てその言葉を思い出しました。 ダサくなりがちな足元を全く隠しちゃうのがルーズソックスの利点なのかなぁ…と。もちろん、足元を可愛く見せる方法は他にもあるだろうし、 昔と違って制服は全般的に可愛くなっているという差もあるはずだけど。 そもそも足首の美しさは成熟した女性には勝てないけど (あ、これ、立野の偏見? ^^;)、そこを可愛く解決してますよね。 まあ、可愛いに絶対的な基準もないだろうし、流行になっちゃうと 本当に可愛いかなんて関係なくなってしまうのかも知れないですけど。
ところで、昨年の夏で流行は終わるかなと思っていたんですけど、 終わらなかったみたいですね。 冬だと暖かそうでいいけど、夏だとムレそうじゃないですか。
#実は、最初はレッグウォーマーかと思っていました (笑)。でも、やっぱりルーズソックスフェチな人とかいて、 ムレたルーズソックスを高値で買ってたりするのかなぁ。 いや、いいですけど… (^^;)。
ああ、また変なことを書いてしまった。せっかくみきちゃんが
「立野さんは変態じゃないよ」とフォローしてくれたのに (^^;)。(ありがとう、みきちゃん。 でも、あんまり簡単に立野のような人間を信用しない方がいいかも。^^;)
そうそう、念のために書いておきますが、某さんは ロリな御趣味の男性や、脚フェチな男性に対して とりたて偏見があるという訳ではなさそうです。
立野も他人の性的嗜好についてはなるべくとやかく言わないようにしています (つい言っちゃうこともありますけど…)。 その辺の深層心理って複雑そうじゃないですか。 犯罪は困るでしょうけど、健全とされる嗜好だって無理矢理やったら犯罪ですしね。
うーん、今日はこの辺で。明日も似たネタで書くかも。
えっと、昨晩に引続き、 「セーラー服」というタイトルで書こうかと思ったのですが、 あんまり危ない人のイメージが定着するのも恐いので (^^;)、 今日はあんまり危なくないネタで行きます。
「ハブ」って知ってます? マングースに負けてしまうヘビでもなく、将棋の名人でもありません。 ネットワークの接続機器です。 専用線の来ている所にはあるんじゃないかと思います。
一部で話題になっていたのでご存知の方もいるかと思いますが、 ネットワークの状態を音声で伝えるハブが発売されたようです。 しかも、声はなんと宮村優子さん(エヴァのアスカの声の人)。
設定を間違えると「あんたバカあ?」と言われるとか噂が飛び交いましたが、 実際には次の7通りのメッセージが音声になるようです。
- システム起動を確認
- 冷却ファン異常停止
- ネットワークの負荷が上昇中
- 1番ポート、リンク不能!
- 1番ポート、リンク完了!
- 3番ポート、接続遮断!
- 3番ポート、接続が回復しました。
限定300台。マニアが欲しがる一品? (^^;)
未開の奥地などで独自の風習を守っている部族への潜入記など、 テレビなんかでたまにありますよね。 以前、そういう取材をしている人の話を聞いたことがあります。
村へ入れてもらうのには、まず信用されないといけません。 自分に敵意がないことを相手に伝えることに失敗すれば危険です。 失敗して殺されてしまった人も過去にはいるらしく、命懸けの取材です。 だから、自分が武器を持たないことを示しつつ、 彼らの文化で敵意がないことを表すジェスチャーをしたり、 長老に贈り物をして、自分に敵意がないことを必死に表現します。
ところで、数日前にこの日記で「言葉の通じない幼児と遊ぶのは結構好き」 という話を書いたと思います。立野の感覚からすると、 言葉の通じない幼児と仲良くなるには、 まず「自分に敵意がないことを相手に伝える」ということから始まります。 未開地への潜入取材と同じです。 目で微笑みかけたり、おどけてみせたりして、何とか伝えます。 敵意がなく好意があることが伝われば、 向こうもむき出しの好意を見せてくれるので嬉しいです。 失敗することも多く、泣かれてばっかりのこともあるんですが、 幸い失敗しても殺されることはないので助かっています (^^;)。
幼児と遊ぶときだけでなく、立野にとっての人間関係の基本は、 「自分に敵意がないことを相手に伝える」なのかも知れないと思うときがあります。 しかし、成長した人間ほど、自分に敵意がないことを伝えることが難しくなります。
#あ、だから、幼児と遊ぶのが好きなのかもしれない、と書いてて気づきました。(^^;)
他人にいじめられたり、馬鹿にされたり、嘲笑されたり、陰口をされたり、 裏切られたり…。傷つけられた経験がない人はおそらくいないでしょう (立野にもいろいろあります)。 そういった経験から、あまり他人を信じなくなります。
親や周囲から植え付けられる 「あの人は悪い人だから」という差別意識などが原因のこともあるでしょう。 家族に犯罪者がいるから、日本人じゃないから、身なりが汚いから、 髪を染めているから、などなど。 幼い頃は親の言うことは正しいと思っていることが多いので、 親が差別意識を持っている人間のことを危険人物と決めてつけてしまう。 もちろん、成長してから持つ差別意識もあるでしょうが。
傷つけられた経験から人間が信じられなくなっている人に 敵意がないのを伝えるには、決して馬鹿にせず、嘲笑せず、 自分のことのように相手のことを大事にする、など色々言えるかも知れませんが、 一般論はなく、その人のことを必死に理解するしかないのかも知れません。
ただ、見下すのはまずいです。 そんな気持ちをちょっとでも持っていたら相手は必ず気づき、 信用されなくなります。
いきなり相手から攻撃してくることもあるでしょう。 攻撃されても攻撃してはいけません。 それは、敵意がないことを伝えることを諦めたことに他ならないですよね。 ただこれにも一般論がなくて、 こちらから攻撃してしまって、もう駄目かなと思ったときに、 逆に相手がこちらの心の暗い側面を見て信頼を与えてくれることもあります。
間違えて傷つけてしまうこともあるでしょう。 それで終わってしまうこともあるでしょうが、これも一般論はありません。
差別意識からやみくもに危険人物だと思われている場合は、 相手の意識変革なしには信頼してもらえません。 いずれにしろ、相当な根気が必要です。場合によっては何年もかかります。 いや、続けないと意味がないのかも知れません。
敵意がないことを伝えるには、自分が傷つくことも多く、 とりたて人に勧めはしません。幸せな習慣かどうかは自分でもわかりません。
最近は少なくなったのですが、立野は酔っ払うと 「自分が如何に本気でみんなのことを愛しているか」 ということを伝えたくなる傾向があるらしいです(^^;)。 次の日記憶がないんで、「俺、なんかした?」と尋ねたら、 「愛してると言って抱きしめられて、どきどきしちゃいました」 と言われたこともあります(同性にです ^^;)。
ところで、こんなことを書こうと思ったのは、 実はみきちゃんの日記を読んだからなんです。 今日の日記は、「みんな、本当に私のこと好き?」というみきちゃんの疑問への、 立野からの回答でもあるんです。
そうそう、先日の日記で「(立野みたいな人間を)そう簡単に信じちゃ駄目だよ」 と書いたのは、 みきちゃんが知っているのは立野のほんの3割くらいの側面だけだと思って、 それだけで判断するのは(一般論として)怖いんじゃないかと思ったからです。 純朴そうなサラリーマンでも、 家族には出張と偽って東南アジアに買春ツアーに出かけて 10歳未満の少女を買っている人だっているから。
立野についてのみ言えば、みきちゃんは、立野の残りの7割を知ったとしても、 おそらく嫌ったりはしないだろうと(かなり本気で)信じています。
先日、「セーラー服」という題で書こうと思ってやめたとだけ書いたので、 もしかして「立野さんてセラコン?」と誤解されているかも知れません (^^;)。 でも、立野はセラコンじゃないですよ。ほんとに。
セーラー服にしろ、詰め襟の学ランにしろ、ルーツは軍服なんですよね。 海外から京都などへ旅行に来た人が、 修学旅行の集団を見ると兵隊と思うこともあるらしいです。 あと、「セーラー服って汚れやすい」という話も聞いたことがあります。
高校生の頃にそういう話を知って、 セーラー服には特に憧れなくなってしまいました。
ところで、子供の頃に冒険ものの物語とか読んで得た知識なんですが (宝島とかガリバー旅行記とかその辺だと思います)、 水兵服って、脱ぎやすいんだそうです。
服を着た状態では、どんなに水泳がうまい人でも泳げないんだそうです。 だから、海に落ちたら、まず服を脱がなくてはいけない。 でも、ボタンをいくつも外さないと脱げない服だと大変ですよね。 それで、水兵服は紐をさっとほどくだけで脱げるように作られていると。
その後そういう勉強をしたわけではないので、本当に?と聞かれると 自信なくなってしまいますが、なんか説得力ありますよね。 今の水兵服がそういうことを考えているか知りませんし、 ましてや今の女の子のセーラー服にそういう設計思想はないでしょうが…。
あったら凄い。(^^;)
清水宏保選手、金メダルですね。よかったですね、はるひさん (笑)。 (注: この笑いの意味を知りたい方ははるひさんの日記参照 ^^;)。 殆んどはるひさんへの私信ですが、 立野はあまり日記に愚痴を書いたりしていませんが、 それは僕が幸せな人間だからではなく、 むしろ僕の人生は悲しいことだらけなのです (ソロモンのセリフを真似したつもりなんですが、うろ覚え… ^^;)。 誰かチョコ下さい (爆)。
「がんばれ」という言葉についてですが、立野も使用には気をつけています。 「がんばれ」と言われて、明るく「はいっ、がんばります (^^)」って 応じていられる人には言っても全然問題ないんでしょうけど、 苦しんでいる人には「がんばれ」という声援が辛いこともあるんですよね。 たとえば、中学生の時にあるスポーツが得意で、 将来はプロ選手になりたいなんて自分でも言っちゃって、 けれど高校でなかなか上達しないんで いい加減やめようかなとか思っている人にとって、 「がんばれ」という声援は「呪い」みたいなものでしょうね。
立野が苦しい時はこんな歌が好きでした。
悩み苦しんでいる時に 聖母マリアが現れてビートルズの「Let it be」ですが、ある人がこの歌のサビを日本語で、
知恵の言葉を授けてくれる
「すべて なすがままに」
「答えはいずれ見つかる だから すべてなすがままに」やればいい やればいい お前の思った通りと歌っていて、この奔放な日本語詩も大好きでした。
お前の信じたことをやればいいはるひさんの日記で永井均さんの本の話が出てて、 「なぜ悪いことをしてはいけないのか」の話が紹介されていましたが、 立野が子供に言うとしたら、やっぱり 「自分がいいと思ったことをやればいい」 になってしまうと思います。
ただそうすると、「自分がいいと思うことが出来ない自分」 という問題を抱えこむことになり、 だから永井均さんのように 「悪いことをしてしまうことは悪いことではない」 というようなメタな許しを与えることによって救おうと思う人が 出て来るのかも知れません。
また続きを書きます。
2/22 追記: 「悪いことをしてしまうことは悪いことではないという メタな許しを与えることによって罪悪感に苦しむ人を救おう」 という観点は、永井均さんの本には全くないそうです。 立野の認識ミスでした。
前の日記で「また続きを書きます」と書いてから あまりにも色々なことを考えてしまい、収拾がついてないです。 すべてを書き切れないし、うまく整理して書けないけれど、 今日のところは最初に書こうと思ったことを書きます。 派生して考えた色々なことは、おいおい書いて行きます。
自分がいいと思うことが出来ていないと、 必然的に罪悪感や自己嫌悪といった感情を背負いこんでしまいます。
私 ホントは目撃したんです中島みゆきの「ファイト!」の一節ですが、 「自分の敵は自分である」というのも近い感情だと思います。
昨日 電車の駅 階段で
転がり落ちた子供と 突き飛ばした女の薄笑い
私 驚いてしまって 助けもせず叫びもしなかった
ただ怖くて 逃げました
私の敵は私ですなぜ自分がいいと思うことが出来ないかは、 様々な理由があるはずで、軽々しくは言えません。 ただそういう人に、「自分がいいと思ったことをやればいい」と言って 片付けてしまうのは、無責任、あるいは自己満足ではないかと思います。 「100%正しい忠告は何の役にも立たない」という言葉を思い出します。
「よく思われたくて何かをするのが汚いなら、 偽善者と罵られるの怖さに望むことをしないのは何なんだ!?」
いきなり「はみだしっ子」におけるグレアムの絶叫を引用しましたが (細部うろ覚えです)、偽善者と呼ばれるの怖さに自分がいいと思うことが 出来ないという状況について考えます。
日本人は、他人の目を非常に気にします。 特に外国人に詳しい訳でもなく、けれどそうだろうと推測するには、 立野なりの根拠があります。 正確には「日本人は」というより、「神様(宗教)を持たない人は」で、 「神を持たない人は神を持つ人に比べ他人の目を気にしやすい傾向がある」 と言うべきかも知れません。
人間は誰しも他人の目に映る自分の姿を気にするものだと思います。 それは日本人も外国人も同じでしょう。 しかし、神様を持つ人は、神様という「大いなる他者」 の目に映る自分の姿も非常に気にします。 他人に偽善者と罵られても、神様が認めてくれていれば平気なんです。
「大いなる他者」という言葉は「はみだしっ子」でも出てきますが、 精神科医のRDレインの『自己と他者』に出て来る言葉がもとだと思います。
日本人は概して神を持ちません。 だから、日本人は概して他人の目を気にしやすいのです。 そしてだから、「偽善者と罵られるの怖さに望むことをしない」 という状況は、日本人に特に多く見られる傾向ではないかと推測します。 日本でボランティアが発達しにくいのは、 日本人が宗教を持たないということと密接な関係があると思います。
だから日本人ももっと宗教を持つべきだと主張している訳ではないですよ。
それでは、神様を持たない人間が、他人の目を気にせず、 「自分がいいと思ったことをやればいい」と考えたら?
宿命的に独善になります。 しかし、他人の目から完全に自由になるのは不可能ですから、 完全な独善はあり得ません。 それに今度は「お前は独善だ」と罵られるかも知れません。 それでもとにかく、自分で考えて、自分で行動するしかありません。 神を持たない者にとって、何が正しいか、絶対的な基準はないのです。
グレアムは絶対的な善悪の基準を求めたと言えると思いますが、 そういった行動を通して結果的に彼は 絶対的な基準などないことを示したというのは言いすぎでしょうか。
偽善者と罵られる話に戻ると、立野は 「本当に困っている人は、助けてくれる人が偽善者かどうかなんて 気にしていられないんじゃないか」というようなことも考えるようにしています。
うーむ、充分収拾ついていないですが、 自分がいいと思うことが出来ていないというのは 自分に対する否定的な感情の源泉なのだから、 何故出来ないのかを考えてみることは無駄ではないのかも知れません ということで…。
えっと、今日は軽く行きます。毎日重いと辛いので(^^;)。 風邪ひいたみたいだし。ぐすぐす。
セーラー服の話題に トカゲさんとななしのさんから反響をいただいています。ありがと。 かつてセーラー服を着た女性からの反響はちょっと期待していましたが、 そうですか、やっぱり脱ぎやすくはないですか。 でも、これから流行るらしい セーラーカラーの服が脱がしやすいと、じゃなかった(^^;)、 脱ぎやすいといいですね。 いや、ほら、海に落ちたときのためにも (^^;)。
突然思い出したのですが、知り合いに 横浜の山手にある某有名私立女子高の出身の人がいるのですが、 卒業後しばらくして、「制服買います」 という妙なダイレクトメールが届いたことがあるそうです(笑)。
電グルのサンプリングというと、その昔 Depeche Mode が使われていてびっくりしたことがあります。 アルバムは今のところ『ドラゴン』が一番好きなのですが。
そうそう、超カメレスですが、立野がみんとっちの 1/31 の日付の日記を読んだのは紛れもなく 1/30 でした。 時差かな? (ないない ^^;)
ではまた。
先日、神様を持つ人と持たない人での「他人の目」の重さの違いについて 述べましたが、キリスト教の国でも昔と今は随分違うらしいです。 やや古いですが、アメリカの社会学者リースマンの『孤独な群集』 を思い出します。
以前、日記にホットロードの話を書いたとき、 立野の古い文章を引用したことがありましたが、 あの中に出てきた「孤独な群集」という言葉も リースマンの本から取ったものです。
彼は、人間を「内部志向型」と「他者志向型」に分類します。 「内部志向型」は、 自己内の権威(良心、規範、信仰など)によって行動するタイプで、 超自我の強いタイプと言えるでしょう。 「他者志向型」は、他人が何を望んでいるかに基づいて行動し、 常に他人による承認を必要とします。
リースマンは、どちらの型の人間がいいという議論をしている訳ではありません (それは立野も同じです)。 ただ彼は、近代(第1次世界大戦以前)における典型的なアメリカ人は 「内部志向型」であったが、現代(第1次世界大戦以後)における 典型的なアメリカ人は「外部志向型」であることを指摘し、 それに応じ心理学的な問題の主題がシフトしたことを主張するのです。
すなわち、近代においてはフロイトが分析したような 超自我の強い抑圧が主な問題であったのに対し、 現代においては「他者志向型」の人間の抱える空虚さが中心課題になったと。
同じ頃、エーリッヒ・フロムもまた、 現代人は教会や道徳律の権威のもとに生きているのではなく、 世論という「匿名の権威」のもとに生きていると指摘してます。
そういう訳で、先日の立野の文章はやや時代遅れな話なのかも知れないですが、 日本人を外国人と比較するときには、まだある程度有効なんじゃないかと思っています。
ところでリースマンは「他者志向型」の人間を、 他人の趣味や嗜好を常にサーチするレーダーを備えた「レーダー型人間」 とも呼んでいるのですが、ハルメンズの「レーダーマン」という曲を思い出します。
何から何まで同じ構造 私と同じあなたがそこに後に戸川純によってシングル化されたこの曲、 曲名はリースマンの「レーダー型人間」から取っているんじゃないかと思うのですが、 本当のところは知りません。ご存知の方、いらっしゃいましたら是非ご一報を。
あなたと同じ誰かがそこに プリントされた記憶と知識
「この人はどうしてこんなに傷ついているんだろう」
時々、そんなふうに感じさせる作品に出会うことがあります。 痛々しすぎるもの。触れるのが怖くなるもの。 けれど妙に目がそらせなくなるもの。
そういうものに心ひかれるのは、 どこか傷ついた心を抱えているからなのでしょうか。
nine inch nails というユニットの音楽は 切れそうなテクノ・ノイズのシャワーで、 音的に好きです。しかし、あまりのめり込めず長らく避けていたのは、 初期の売り方において性器露出とか屍体ものとか 猟奇趣味的な側面があったからです。 立野はノイズは好きですが、猟奇趣味は避けていたので。
それでも彼の音楽に心がひかれていたのは、 やはり彼がとてつもなく傷ついていたからかも知れません。
まだ感覚が残っているのかどうか
今日 試しに自分を傷つけてみた
痛みに神経を集中する
たった一つの事実は
針が傷口を広げるということ
懐かしい刺すような痛み
こらえようとしていたら
すべてを思い出した
(「Hurt」、アルバム『downward spiral』所収)89年発売の1stアルバム『pretty hate machine』に 「terrible lie」という曲があります。 神様という「大いなる他者」について書いていたら、 この曲を思い出しました。タイトルは直訳すれば「恐ろしい嘘」 でしょうが、あえて立野が邦題をつけるとするなら 「神の嘘」とつけたでしょう。 神よ、俺はお前の約束と嘘なんか信じたためにすべてをなくした、 もはやプライドは失われモラルは朽ち果てた、 なのにあんたはどれだけ裏切れば気が済むんだ、 俺の憎しみはいや増すばかりだ、 おい神よ この世はこんなに悲しい場所なのか?、 という歌です。
誰かにすがっていたいんだ剃刀のようなテクノノイズの中でこんなことが歌われているのを聴く時、 アメリカの病根を感じます。 nine inch nails は『downward spiral』が全米1位になるなど、 アメリカではかなり人気があるんです。 つまり、こういう歌に共感する人間が少なからずいる…。
誰かにすがっていたいんだ
誰かに 誰かに
誰かにすがっていたいんだ
何でもあんたにあげるよ
俺の大切なものをみんな
おい神よ この不愉快な世界で
俺はいったい何者なんだろう今のアメリカにおいて、宗教と現実の落差が激しくなっていることを 示している気がするのは私だけでしょうか。
80年代、よくレンタルレコード屋さんにお世話になったものです。 一番借りていた頃は4つくらいのレンタル店の会員でした。 最近は買うことのが多く、レンタルする事は減りました。 今でも会員になっているのは、 神保町にあるJANISというレンタル店だけです。 もう10年以上のつき合いになります。
この店、数年前、海外のレコード会社がレンタル禁止を主張した時、 反対の署名運動をやって、時々マスコミにも取材されていました。 (結局レコード会社の主張が通り、 洋盤は発売から1年間レンタル禁止になってしまった訳ですが)
でもそれをきっかけに、中古/新品の販売も始めて、 結果的には売上は伸びているんじゃないかと思います。 立野もHMVやタワーのポイントカードはあまり回転しないですが、 JANISのポイントカードが何回転したか考えると怖いです (^^;)。
レンタルレコードだった頃は、ジャケットに紙が張り付けてあって、 借りた人がそれにメッセージを書き込めるようになっていました。 あれ、面白かったんですが、CDになってからなくなってしまって残念です。 客層も密かに業界関係者が多かったらしく、一番驚いたのは、 当時、廃盤で入手の難しかったP-Modelのアルバムを借りた時、 メッセージを書いた人の中に「押井守」と「富田勲」の名前を見つけた時です。 こんな人が借りてるのかとびっくりしました。 最近は普通な感じの店になって来てしまいましたが…。
それでも、ここのレンタルチャートは独特です。 なんたって、96年の1位は「チボ・マット」、 95年の1位は「暴力温泉芸者」です (笑)。 先日この店に行ったら、 97年の邦楽アルバムレンタルチャートが出ていました。 40位まで載っていましたが、ここでは20位まで書きます。
AIRさん、スクさん、40位までに入りませんでしたねー。残念。
- スウィートロボッツ・アゲインスト・ザ・マシーン/(同題)
- ホフディラン/多摩川レコード
- UA/11
- U.F.O/3rd PERSPECTIVE
- ボニー・ピンク/Heaven's Kitchen
- エレファント・カシマシ/明日に向かって走れ
- サニーデイ・サービス/愛と笑いの夜
- チャラ/Junior Sweet
- フィッシュマンズ/LONG SEASON
- ジュディー&マリー/THE POWER SOURCE
- ギターウルフ/狼惑星
- GLAY/REVIEW
- 電気グルーヴ/A
- エヴリ・リトル・シング/エヴァー・ラスティング
- ズボンズ/SUPER FANCY of
- ミシェルガン・エレファント/ハイタイム
- 真心ブラザーズ/B.A.D.
- 想い出波止場/VOUY
- OOIOO/エイト
- 山崎まさよし/HOME
TKファミリーもとうとう全く消えてしまいましたが (^^;)。
97年は上位にほとんど差がなく、混戦だったそうです。 UAはかつて本人がここのレンタル会員だったこともあるらしいですが、 それで強いんでしょうか。 上位に聴いたことのないのが多いので、 今度聴いてみようかと思っています。
「優劣の彼岸」というのは重要な立野用語です。 今日の日記は思い切ってその話を書きます。
以前、昔の知り合いの女性二人と久しぶりに再会し飲みに行ったとき、 いきなり「愛と憎しみは同じものだという意見についてどう思いますか?」 と尋ねられました。 まだ1杯目のジョッキ半分の状態でこう来るかい (^^;) と思いつつ、立野はこんな風に答えました。
例えばひどく誰かを憎むとき、殺したいと思う人がいる。 殺すのは悪いことだけれどそれでも殺したい、刺し違えてもいい、 いや、殺して自分も死ぬ。 自分が死んでもいいから殺したいという、 自己保存という観点からは不合理なほどの憎しみがある。その場で考えた答えではなくて、 いつも思っていたことを述べたのですけど、 それは一理あるなと納得してくれました。
例えば誰かを深く愛するとき、その人のためなら死んでもいいという人がいる。 自分が死んでもいいからその人を守りたいという、 自己保存という観点からは不合理なほどの愛がある。
人間を不合理な行動に走らせる点では、愛と憎しみは同じものである。10代の頃、ニーチェをかじったことがあります。 もっとも、解説本を適当に読んだだけなので、 真面目なニーチェ読者には 「その程度で『かじった』などと言うな」と怒られるでしょうが(^^;)。 だから、ちっともわかっていないのですが、一つだけ印象に残っいて、 今でも覚えていることがあります。 それは、彼の「善悪の彼岸」というもののイメージです。
彼は、善悪という道徳観・倫理観に対し、 優劣という価値観の世界を提示しました。 そして倫理観を捨て、価値観に生きることを希求したと言えると思います。 彼は「善悪の彼岸」に優劣を見たのです。
立野的に補足しますと。
善悪の世界に関連するもの … 道徳、倫理観、世界観、人生観、してはいけないこと、宗教、超自我のようになります(人によって言葉のニュアンスに違いがあるでしょうから、 ちょっと変に見えるところもあるかも知れません)。
優劣の世界に関連するもの … 価値観、差別意識、合理主義、経済学、自我倫理観に超自我を、価値観に自我を対応させる見方は この日記を書くに際して導入してみたのですが、 こうしてみると、ニーチェは強い自我の意志によって 超自我を100%消し去る戦いを挑んだという解釈が出来て、 何となく面白いですね。
ところでこの頃、立野はこういったものとは違う感情に興味を抱いていました。
殺したいほど憎いこういった感情が自分の中にあるのを感じ、 しかしそれが倫理観とも価値観とも関係なく存在するように思えたのです。 現実の恋愛では、倫理観や特に価値観に左右されることは多いでしょう。 しかしそんな時でも、原初的な感情としての恋愛 (たとえば、その人が楽しそうだと自分も楽しくなるなど)は、 やはり存在しているのではないでしょうか。
一緒にいると嬉しい
その人が楽しそうだと何だか自分も楽しくなる
凄く憎んでいた人なのだけど、離れ離れになると寂しい
愛しい人が死んで悲しい
切ない
会いたいそういった感情は、倫理観にも価値観にも還元不能なのではないか?
やがてそう考えるに至った立野は、「善悪の世界」「優劣の世界」 とも違うもう一つの領域があるのだと考えるようになりました。 それは、愛、憎しみ、悲しみ、切なさ、涙、寂しさ、実存に関する領域です。 人間はおそらく、倫理観からも価値観からも、 このもう一つの領域からも逃れられないでしょう。
20歳の時、立野はこのもう一つの領域への思いを込めて、 アイデアノートに一つの言葉を記しました。
「優劣の彼岸」と。
えっと、近所にお店が出来て、 ビール1杯100円のセールをやっているので、 飲みに行きます。
まともな日記は今しばらくお待ち下さい (今夜も日記が登録されなかったら、潰れていると思って下さい ^^;)。
では飲みに行くぞー!
100円ビール、20時までという時間制限があって、 早めに飲みに行ったんですが、20時過ぎ、 「一杯くらい正規の値段で飲んでから終わりにしようか」 と頼もうとしたら、店員さん曰く…。
「好評につき、本日は閉店まで100円でサービスいたします (^^)」
「あ、そうなの?」
帰るきっかけを失って、料理も頼んでしまい…。 しかし、全員20時を目標に飲んできたので、既にへろへろ。 眠りはじめる奴すら出てきたんで、いい加減9時過ぎに終了。 立野はそんなにへろへろではなかったのですが、 疲れがどっと出て、帰って死んだように寝ていました。 ひどく潰れていた訳じゃないです。たぶん (^^;)。さて、親鸞について書きます。 勘のいい方はお気づきかも知れませんが、数日前に立野が書いた、 悪いことをしてしまうことは悪いことではないという メタな許しを与えることによって罪悪感に苦しむ人を救おうという話から 連想したものです。
ただし、立野が遠く10代の頃に得た知識のうろ覚えのままに書きますので、 正確に親鸞の思想を知りたい方はどこかで調べてください。 これを書くに際して、少しは自分も調べてからとも思ったのですが、 それだといつまでたっても書けないので…。
なお、「悪いことをしてしまうことは悪いことではないという メタな許しを与えることによって罪悪感に苦しむ人を救おう」 という観点は、永井均さんの本には全くないそうです。 数日前に、この方がそのようなことを言っているように書いてしまいましたが、 立野の認識ミスでした。
親鸞という人は、罪悪感に苦しむ人を救うということを 実践した人ではないかと思います。 彼の思想は、悪人こそ救われるという悪人正機説から、 「自然 法に(漢字忘れた…自然はじねんと読みます)」 へと変遷して行くのですが、他力思想が深化して行く過程だと聞きました。
他力本願、絶対他力という思想については、 当時からよく理解していたと言えないので、詳しく書けません。 親鸞の師である法然と比べて他力思想と特徴づけられるらしいのですが、 「救われたいという気持ち自体が弥陀が与えてくださったもの」 というような意味だった気がします。
三原順の「Sons」の中に、
「誰が自分だけの力で幸せになれるだろう?」というようなセリフがあるのですが、それをもじって言うなら、「誰が自分だけの力で救われるだろう?」ということになるのかも知れません。 三原順さんの方は神仏の類を想定して言ってはいないでしょうから、 全然違うのでしょうけど、こうして並べてみるとちょっと面白いですね。親鸞は自ら現世における苦しみに身をおくため、 妻子を持ち、生臭ものも口にしたといいます。 また、仏教の持つ呪術的、神秘主義的な面よりも、 念仏という単純な信仰を重視しました。 ただひたすら、「南無阿弥陀仏」と唱えるのです。
何故、弥陀なのか、理由があります。 何という経典にどんな風に書いてあったのかは忘れましたが、 「本当に救いが必要なのは悪人なのではないか、 だから私は悪人こそを救いたいのだ」というようなことを 弥陀が述べていて、これこそが「弥陀の本願」であるとし、 思想の中心に据えたからです。
親鸞の思想はキリスト教におけるルターとも近いという話も聞いたことが ありますが、そこまで来ると殆ど覚えていないです。 ただ、悪人、罪悪感、救い…と並べたときに、 ごく自然に親鸞のことを思い出していました。 特に信仰しているとかないのですが、 今でもこれだけ覚えているということは、 10代の立野にとって印象が深い話だったのだなと、改めて思いました。
これで、あのあと考えたことシリーズは終わりにしようと思います。 ただ、いつか、あともう一つ、ドストエフスキーの話も書きたいとは思っています。 ちゃんと書く自信がないので外したのですが、 そう言っているといつまでたっても書けないし…という気もするので。
先日、JANISの97年レンタルチャートを20位まで書きましたが、 ぎりぎり40位にCOCCOの『ブーゲンビリア』が入っていました。 これに対するお店のコメント文、面白かったです。
現在、某航空会社のCMソングが大ヒット中の沖縄出身の彼女の歌は、 ある意味、97年最大の問題作。 強烈な自我を叩きつけてくる彼女の歌は BGMとして聞き流すことのできない、切羽つまったもので、 例のCMの麗らかな南国の楽園とは最も遠い世界。 初めてTVでCM見た時は、そのギャップにクラクラしました。COCCOの「強く儚い者たち」がJALのCMで使われているんですよね (注:アルバム『ブーゲンビリア』には入っていません)。 立野も、初めてCM見た時は笑ってしまいました。 いや、あのCM見て、「あ、この曲いいカンジ〜」 なんて思ってCDを買った人は卒倒するかも知れませんよね (^^;)。「強く儚い者たち」という歌は、愛するものを守るため海に出て、 必死に戦って、嵐の中を生きのびて、 奇跡的に自分の港に帰りつく…という歌なのですが、やっと戻って来た時、 「あなたのお姫様は誰かと腰を振ってるわ」というオチが待っています。
もともと1年ちょっと前、Scudelia Electro の石田小吉さんが COCCOのインディデビュー(当時COCKO)のプロデュースをしたので 知ったのですが、今では関係なく好きです。 ただ、その当時から思っていたのですが、COCCOの音楽、 彼女の内面の激しさにサウンドが追い付いていない気がします。 「もっとロックな曲があってもいいと思う」と、よく人に話しました。 COCCOがこのテンションで音楽をやれるのは、この先そう何年もないかも知れない。 だから、今、一番激しい時に、もっと激しい音楽をやっておかないと もったいないんじゃないかと思うのですが、どうでしょう。 確かに、『ブーゲンビリア』を聴くと、 はかなげな感じもなかなか良いんですけど (^^)。
そう言えば、2月23日って、中島みゆきさんの誕生日だった気が。 あの人、何歳になるんでしょうね。中島みゆきさんのように あの歳であのテンションが維持できるって、絶対尋常じゃないですよ。
いや、ほめてるんですよ (^^;)。 立野は中島みゆきさんのかなりのファンです (笑)。 語り出すとキリがないので書いてないですが、近々本気で日記に書くかも。
前に日記に「何故いいと思うことが出来ないか」の話を書いた時、 中島みゆきさんの「ファイト!」を引用しましたが、 橘いずみさんでも良かったかなと思います。 「失格」の「自分の言いたいことを私は何も言わない〜」 なんて歌詞はそのままの気がしますし、「バニラ」の 「そんなに私 弱くはないから そんなに私 強くはないから」 という歌詞もかなりいいですね。
「君、弱いね」って言われると、なんとなく腹が立ちませんか?
けれど逆に、「あなたは強いから」って言われると、 なんとなく馬鹿にされた気がしたり、 そんなに強くない…って、淋しい気持ちになったりしませんか?
立野はなります。
COCCOは最初に、「人は弱いものよ とても弱いものよ」と歌い、 次に「人は強いものよ とても強いものよ」と歌います。
そして最後に、「人は強いものよ そして儚いものよ」と歌うのです。
PS. 立野はこの歌を聴くと、「ウイリアムな気分」になるのですが、 三原ファンにも通じない…? 立野が特殊なのかな?
なっちーの日記が更新再開して嬉しいですね。 立野日記に関連して神道の話を書いていてくれて、 (個人的な心痛の為なかなかレスれませんでしたが) 実は嬉しい反応でした。
そう、古来からの日本の神道(衆合神道)と 明治期に強引に作られた国家神道ってかなり違いますよね。 もともとの神道って、すごく純朴な自然信仰なんです。 色んなものに神様が宿っている。
高い山へ登る道の入口に大きな鳥居が立っていたりするけど その先に大きな神社でもあるかと思うと特になくて 実は山そのものが神様だとか、 不自然なくらい大きな岩があると それ自体に神様が宿っているとして祭ってしまうとか。
アニミズムってのは宗教の中で最も原始的なものなのかも知れないけど、 古い神社などで素朴な自然信仰の名残を見つけたりするのは、 実は立野もちょっと好きです。
いきなり話題は変わって、オリンピックのスケートの話です。 なっちーは、キャンデローロとクーリックがお気に入りだったのかな。 でも、立野はやっぱりスケートは女子が…などと言っていると、 立野アブナイ人説が再燃し高速増殖しかねないのであまり力説しません (^^;)。 音楽の話題をしましょう。
フランスの女子の選手が Dead Can Dance の曲を使っていて驚きました。 演技は失敗だったみたいでかわいそうでしたが、 曲のタイトルを知りたくてウェブで探してみました。
Dead Can Dance って、4ADレーベルの不思議な音楽で、 こんな名前をテレビで聴くなんて初めてでした。 結構好きで、CDも持っているのですが。
ところが、長野五輪の公式ページやIBMの五輪ページへ行っても、 さっぱりわからないのです。 公式ページならではのデータベースなんて期待したのが間違いなんでしょうか。 写真とか速報とか時事的なものは充実しているのですが…。
もしかして立野の調べ方が悪くて見付からなかったのなら済みません。
結局、goo でサーチしてたどり着いたのは Skating Music Page ( http://www.din.or.jp/~maeno/skate-music/index.htm )。 こういう地道なデータベースは結局個人がやってるんですね…と、 妙にインターネットを実感しました。
ここで確かに Dead Can Dance の曲が使われていたのは確認できましたが、 曲名まではわからなかったです。 あと、どこかでケイト・ブッシュらしき声も聴いたので探してみたのですが、 わかりませんでした (競技中ではなかったのかも)。
曲目の一覧を眺めていて、「おっ!?」と思ったのは、 Pink Floyd の Shine on you Crazy Diamond が使われているじゃないですか。 いや、Pink Floyd は驚きませんが、よりによってこの曲か…と、妙に感嘆。
ピンク・フロイドの初期メンバーであるシド・バレットという人は 精神がおかしくなってバンドを離脱してしまったのですが、 この曲はその彼に捧げられた歌で、クレイジー・ダイアモンドとは シド・バレットのことだと言われています。
あとは、クーリックがジャン・ミシェル・ジャール使っていたんだなとか、 エンヤが多いなとか…。 そう言えば何年か前、中国の選手がナウシカのサントラ(久石譲) を使っているのを聴いた時、どうして日本人は使わないんだろうなー と思ったのですが、 ジャン・ミシェル・ジャールを使っていたのはアメリカとロシアの選手だし、 案外、自国の音楽って使いにくいものなのかなーと思いました。
ジャン・ミシェル・ジャールはフランスの有名な New Age 音楽です。 今度のフランスワールドカップの音楽を手掛けるみたいで、 ちょっと楽しみです。
名古屋から来ているFOSSAの人の迎撃オフミがあって、 ややへろへろです。 8月に立野が記憶をなくしているオフミがあって(^^;)、 その光景がビデオに収められていて、 編集されたビデオをいただいてしまいました。 見るのが怖いです(^^;)。
でも、久々にみんなに会えて楽しかったです。(^^)