立野が子供の頃、よく兄貴に怖がらされていました。
たとえば子供向け怪奇ものテレビを見ているときに
「お前、怖いんだろう」とか言われたり、
大きな声で驚かされたり、そんな風にいろいろからかわれました。
十代の終わりの頃、そのような状況について、
確か筒井康隆さんがこんな風に説明しているのを読みました。
「怖いだろう、怖いだろうと怖がらすのは、
実はそいつ自身が怖いのをまぎらわすため」
(すみません、確か『やつあたり文化論』で読んだと思って
今回この文章を書くにあたりざっと眺めてみたのですが、
見つけられませんでした。当時古本で買って読んだ筒井康隆さんの
本のどれかではないかと思うのですが、もし心当たりのある方は
ご一報いただければ嬉しいです。補足したいと思います。)
この文章を読んだとき、立野がなるほど…というか、
積年の恨みが晴れるような気分だったのは、
何となくご想像いただけるかも知れません(苦笑)。
今でもその辺りだけ覚えています。
舞台は変わって立野が二十歳過ぎの頃、功利主義者ベンサムについて
こんな話を聞いたような記憶があります。
曰く、「ベンサムの暴露主義的な思想傾向は、
幼少期にそんな風にからかわれていたことに根付いている」。
この話を聞いて、立野はある意味醜悪な功利主義者ベンサムに対し
妙な親近感を覚えてしまいました(苦笑)。
ベンサムについて立野も詳しくありませんが、
浪人時代に勉強した知識を元に立野が抱いたベンサムのイメージを
簡単に書いてみます。
(かなり立野の推測で勝手に補っているので、
正確なことが知りたい方は別途ご勉強ください)
ベンサムは、民主主義において多数決という議決方法を積極的に支持した
数少ない思想家だと思います。数少ないというか、本当に積極的に多数決を
支持した人って実は滅茶苦茶レアだというのが立野の認識なのですが
その辺りはここでは置いておいて、たとえばベンサムという名前を
知らない人でも彼の「最大多数の最大幸福」という言葉は知っているように、
ベンサムというとまず多数決原理の話になます。けれど、
戦後民主主義教育の刷り込みによって日本人のマインドを強力に
コントロールしているこの教義が、どんな考察に基づいているかは
意外に知られていないように思います。
キーワードは「幸福計算」です。
ベンサムは、人間の幸福度をその属性から計算できるものとしました。
どうやって計算するのか、具体的な計算式はよく知りませんが、
財産とか健康とかから計算するのでしょうか。
とにかく、各人間の幸福度を数値化できるものとします。
その上で、全体の幸福度を各人の幸福度の総和とします。
そして、たとえばある議題についてA案、B案、C案という選択肢があったときに、
各案について、それが選択された場合に全体の幸福度がどれだけ上昇するかを求め、
全体の幸福度の上昇が最も大きいものを選択しよう、というのが
「最大多数の最大幸福」の意味です。
当時の経済学の影響が強いのだと思います。
こういった思想に人間の幸福度はそんな風に計算できるものではないと
反論する人が出てくることは、まあ当然の成り行きの気もしますよね。
彼の幸福計算についてはすぐにJ・S・ミルという人が噛み付いて、
ベンサムの量的功利主義に対し質的功利主義とか呼ばれたようです。
他にもたとえば、多数決制民主主義が彼の「最大多数の最大幸福」の
適切な実現手法かというと怪しくて、たとえば、飢えている人たちがいる一方で
食べきれないほどの食べ物を残している人たちがいる社会においては
余った食べ物を飢えている人たちに分配するほうが「最大多数の最大幸福」の
理想には近いはずですが、現状の多数決民主主義は必ずしもそこに導いてはくれません。
更に今なら、立野が「メモノート24 『結ぼれ』『自己と他者』/RDレイン」
で示唆したような、相手の幸福が自分の幸福/相手の不幸が自分の幸福といった
相関がある複雑系でそういった単純化した幸福計算を行うことに
どれほど意味があるのか…などという批判も可能であるのでしょうが、
どんどん話がそれるので、暴露主義の話に戻ります。
幸福は基本的には物質的充足から計算できるという思想は、
美しいごもっともな主張の裏にも実は物欲が潜んでいるという暴露戦術と
関係してきます。
立野がベンサムの幼少期の話を知ったのは、
ケネス・バークの『文学形式の哲学(The philosophy of literary form)』
だったはず…と思って今回引っ張り出してざっと調べてみたのですが、
残念ながら該当箇所を見つけることが出来ませんでした。
二十歳過ぎの頃、その本の原書読書会に参加していたので、
その時に誰かが余談として別のところから紹介してくれていたのかも知れません。
(こちらもまた、ご存知の方はご一報ください…)
確かここだったはず…と思ったのは、
「暴露戦術の効用と限界 (The virtues and limitations of debunking)」
という箇所でした。暴露戦術というのは、たとえばワシントンは
桜の木を切らなかった…という内幕暴露のようなものとか、
たとえば法律の正当性なんて合理的理由があるものでなく殆どが習慣であるとか、
「実はそいつ自身が怖いのをまぎらわすため」とか、
一見もっともらしいものが如何に頼りのないものであるかを
暴露することによって打ち砕く手法…とでも言えばよいでしょうか。
ケネス・バークは、そういった暴露戦術を、脱構築(deconstruction)の
手法のひとつとして評価する一方、それには限界がある、
という立場を取っているように思えます。
「なぜ人間の動機の提示を人間の動機の暴露と同義語として扱わなければ
ならないのかその理由がよく解らない」
今ざっと読み返してみると、立野はそういったケネス・バークの地平に
非常に共感できるような気がします。
暴露主義の地平にいる言説に触れると、
内容について一定の評価を与えつつも、
暴露によって何かを悟りきってしまったかのように言われると、
「メモノート30 偽善と偽悪〜グレアムをびっくりさせる何か」
でも言葉を引用した次の一節をつい思い出してしまうのです。
「世の中はとても臆病な猫だから
他愛のない嘘をいつもついている
包帯のような嘘を見破ることで
学者は世間を見たような気になる」
中島みゆき「世情」、アルバム『愛していると云ってくれ』所収
「包帯のような嘘」のイメージは、『X-Day』において
ダドリーのお父さんが言う「幸せでいるための言い訳」の
イメージともちょっと重なってきます。
「なあ ダドリー
大抵の人間は何かしら自分を幸せにしておける様な口実を持ってるもんだ
仕事で成功できない者は けれど自分は家庭を大切にしているんだと
言うかもしれないし
思い通りに家族を動かせなくなった者は けれど自分は会社で
もっと多くの人間を動かし
そいつらの生活を支えているんだと言うかも知れん
何もできない者達でも 自分達はTVに映ってる政治家たちのように
他人を見下したような目つきや態度などとった事はない…とかな
そして わしの言い分はな
自分のやってきた事の始末は自分でしてきたって事だ
そしてな ダドリー
若い頃なら途中で全く別な口実に切り替えることも難しくはないだろうが
年をとると自分にその口実を言い聞かせて思い込ませるまでに
ひどく時間を食う様になってな…臆病にもなるし 億劫にもなる
だからダドリー
今はもうおまえがわしに譲ってくれるべき時だ」
『X-Day』文庫P168-P169
包帯のような口実。
三原順さんは、暴露を到達点として設定するのでなく、
どちらかと言えば出発点として、そこから先を描いているように感じます。
DDは言います。
「悔しいじゃないか
オレが地球でめぐり遭える
最高の生き物が
人間でしかないなんて」
『Sons』文庫第1巻P84
自分に、人間に満足できず、人間以上の何ものかを求めて、
DDは悔しがります。
「知ってるよ!!
誰も彼もが
たかが人間でしか
ない事位は!
だからこそオレは
いちいち文句をつけたりせずに
黙っているんじゃないか!!
出来るだけ黙って許してるじゃないか!
だからオレはお母ちゃんに"あなたは愛情中毒だ"とは言わないじゃないか!
だからオレはお父ちゃんに
"心のどこかではウイリアムの成功を妬んでいるんだろう?"
とは言わないじゃないか!
勿論婆ちゃんの家が売り払われて
誰かが住み始めたってけちなんかつけない!
何も言わない!
知ってるからね!」
『Sons』文庫第3巻P245-246
包帯のような嘘。
そして、こんな会話に繋がっていきます。
- ケビン
-
-
「謝っておきたかったんだ…ボクの為に危険を冒してるのに…
ボクがこんな様で…本当は腹を立ててるんだろう?」
- DD
-
-
「じゃあ、お前は? ケビン…
助けを待たずに無理矢理一か八かの逃走をさせているオレを…
恨んでいるのか? ケビン」
- ケビン
-
-
「どうして? D・D…
どうしてボクが恨むなんて思うんだ!?」
- DD
-
-
「そうか! 恨んでないのか! そりゃあ良かった!
じゃあ オレ達はお互いに…知ってるんだ!
オレ達はお互い相手が"たかが人間"でしかないって事を知ってるんだ!」
- ケビン
-
-
「…うん! 知ってる
それなら 知ってる…
誰も彼も"たかが人間"でしかないって事ならよぉく知ってる!」
- DD
-
-
「そりゃあ良かった
お陰でオレも気が楽になった
もしこのまま…オレ達が2度と会えなくなっても…
残った方は 逝った方が 恨んだりはしてなかったと…信じていい!…
そういう事だろう?」
- ケビン
-
-
「ああ! そうだよ! D・D!
ボクはお前を恨まない!
それは信じてくれていい!
そして おまえも ボクを恨まないんだな…
ありがとう D・D」
『Sons』文庫第4巻P106-108
DDは、暴露主義を超えて事勿れ主義に至ったのでしょうか。
もうすぐ2001年を迎えます。
昨日があって、明日がある、そんな時間の中で、
人間が勝手に決めたものさしで
人間が勝手にキリがいいとか言って祝うのって滑稽だよね…
そんな風に言うことで、何かを悟ったような気がしていた
十代の頃を思い出します。
DDも、ケビンも、ウイリアムも、トマスも、ルドルフも、
ジュニアも、ジェニファーも、グレアムも、アンジーも、
サーニンも、マックスも、ジャックも、ロナルドも、
それぞれに味があるキャラクタで、けれど、たかが人間でした。
三原順さんも、たかが人間でした。
そしてやはりたかが人間でしかない立野は、
これからもそれらを愛しつづけて行くのだと思います。
(2000年12月31日 立野昧)
(2001年1月10日 若干加筆)