charlotte sometimes (Tateno's diary 2000.8)

過ぎ去った日々はすべて哀しい (Tateno's diary 2000.8)

国辱

2000.8.9 (21:46)

久しぶりに三原順メモノートを書きました。 「マックスを捨てたグレアム」 という項目です。また、 「三原順投稿歴」 という資料も書きました。

さて、日記も久しぶりなのに、変な話を書いてしまいます。

たとえば、誰かに馬鹿と言われたので怒ったら、相手がこう言ったとします。

「あなたは実際馬鹿であり、だから私は間違ったことは言っていないし、 今でもあなたを馬鹿だと思っているが、あなたが馬鹿だと言われたことによって 不快な思いをしているのでしたらそのことについては謝罪します」

立野の感覚では、これは謝罪ではなく輪をかけて馬鹿にしているだけに聞こえます。 ひとこと「ごめん、言い過ぎたよ」などと言う方が余程謝罪になると思いませんか?  上記のセリフは、回りくどく言うことによって 「これは形だけの謝罪である」という言外のニュアンスを わざと出しているんですよね。

あ、別に最近直接的にそういう経験をした訳ではナイです。 ただ、ずっとこの話を書きたかったのは、 森首相の神の国発言についての釈明が、これに近く聞こえたからです。 発言そのものも、釈明会見の内容も、ちゃんと通して聞いていないので 一応その辺り把握してから書こうと思っていましたが、 あまりにも時流に遅れてしまうので書いてしまいます。

森首相の釈明会見の内容の本質は次のようになります。

「私は間違ったことは何一つ言っていません。 ですから発言を撤回する必要はありませんし、 本来謝罪する必要性すらないことでしょう。 しかし、日本語のわからない馬鹿な国民にもわかるような喋り方を しなかったのは私の落ち度でもあるので、その点については謝罪致します」

立野の感覚では、これは謝罪ではなく馬鹿にしているだけに聞こえます。 これを「謝罪はしたが撤回せず」と報じていたマスコミがありましたが、 立野なら「形だけ謝罪、撤回もせず」と書いたでしょうね…。

ここまであからさまに国民を愚弄した首相って、初めてですよね。

三原順さんの絵本『かくれちゃったのだぁれだ』が限定復刻されることに なりました。 復刊ドットコム http://www.fukkan.com/ での復刊実現第1号となるようで、 現在予約受付中です(→ http://www.fukkan.com/vote.php3?no=157 )。

8/17 の夕方のNHK首都圏ニュースでも「C to B ビジネス」の一つとして 復刊ドットコムが紹介され、復刊第1号である『かくれちゃったのだぁれだ』も ちょっとだけ紹介されていました。 復刊ドットコムは、絶版になっている本の復刊リクエストを受け付け、 一定数のリクエストが溜った書籍から実際に出版社に復刊交渉を行い、 実現に向けて動くようです。6月からスタートしたばかりなのですが、 既に何冊か復刊交渉が成立しているのは凄いですね。 『かくれちゃったのだぁれだ』については白泉社や著作権所有者が 前向きに応じて下さったらしく、展開が早かったようです。

ちょっとだけ裏話がありまして。

先週、お城の舞踏会というか湾岸の方で某イベントがありまして、 立野は行けなかったのですが、終了後の新橋での三原系オフ会に駆け付けました。 そうしたら、ブッキング(復刊ドットコムの会社)の方が宣伝にいらしていて、 NHKに取り上げられる話もその時に聞きました。 しかも、最初に『かくれちゃったのだぁれだ』を復刊希望図書に挙げた友人に NHKから取材があるそうで…。立野の家に遊びにくる予定だった友人は、 とりあえず翌日の連絡先を尋ねられたので連絡先を立野家にしたとのこと(笑)。

翌日、オフ会の続きで立野家ではタコ焼きパーティー(?)が開かれていました。 そして、まさにタコを焼き始めた時にかかってくるNHKからの電話。

友人が

「あなたにとっての三原順さんとは?」

などの質問に苦労しつつ答えている横で、みんなでタコ食ってました(苦笑)。

友人はこの時の応対によってはもう少し扱いを大きくしてくれていたのではと 残念がっていたようですが、立野はNHKが無難な方向に 持っていきたかったのだと感じました。 「C to B ビジネス」として、オリジナルデザイン(?)の情報機器の会社の方が 扱いが大きかったようですが、そういう話は他の番組でも何度か取り上げられて いるでしょう。だから「本というアナログな文化の C to B」の方が 面白い切り口になったであろうにと立野は思うのですが、 結局無難さを選んだのかな…と。

それにしても、 『かくれちゃったのだぁれだ』がちゃんと映っていたのは嬉しかったけれど、 三原順さんの名前は言ってくれなかったですね。 ひどいわ > NHK。受信料払っているのに…(謎)。

あちこちトラブル

2000.8.25 (01:51)

ここ数日、立野のネット環境のあちこちがトラブっています。 立野にメールを送った方、変なエラーメールが返っているかも知れませんが、 大抵は届いています。(必ず届いているとも言い難い状況なのですが)

ご迷惑をおかけしておりますが、今しばらくご容赦を…。

アジテーター

2000.8.25 (01:52)

数日前に書いた日記なのですが、 ネットトラブルのために掲載失敗していたので 登録しなおしてみます。

60年安保の時に国会前に集結していた群衆を煽動して 国会突入をさせたのはKGBの工作員だった… という話を読んだことがあって、 そのことの真偽は知らないのですが、 アジテーターというとまず連想するのはその辺りです。 それ以前の明治とか大正の頃でも、日本の近・現代史の中では アジ演説など日常的にそこら辺でやられているのが普通だったらしい、ということは 昔の小説なんかを読むと時々思います(正確にどうかはよく知りません)。

それで現在を思うと、そういう時代は終わったのだなと思う一方、 アジテーションという人間の営みはなくなるという訳ではないのだなと 感じることがしばしばあります。 まあ、アジテーションというと、自分の目的を達成するのに 自分の手を汚さず他人を煽動して他人にやらせてしまうような話でしょうから、 自覚的な目的がない場合はアジテーションとは言わないのかも知れません。 それでもまあ、自分がどういうことにアジテーションを感じるのかというのは 多少考えてみたことがあって、なんとなくわかっているので書いてみます。

たとえば、他人の人生に無責任に口を出す人というのは案外多くて、 それ自体は普通のことなのでしょうが、 場合によっては軽いアジテーションを感じます。 無責任さの度合いが一つのポイントで、 たとえば親は子に対して無責任にはなり得ませんから (という自覚のないケースは別として)、 親が子に説教していても別にアジテーションとは感じません。

もう一つのポイントは煽っている事柄の重大さです。 「このCD凄くいいよ〜。聞いてみなよ〜。買っちゃえ〜」と言われて、 買ってみたら好みに合わなかった……程度なら、大した問題ではないですよね。 しかし、たとえば「お前あの子のこと好きなんだろう〜。 だったらさ〜、やっちまえばいいんだよ〜」などと煽られて、 本気で実行した結果双方ボロボロに傷付いてしまった……なら、 煽った人も多少は責任を感じて欲しい気がします。

しかし、自分の言葉に煽られて何か困ったことになってしまった相手に 「ごめん」と言える人は、あまりアジテーターとは感じません。 立野が本当にアジテーターだと感じる決定的なポイントは、 「お前も少しは責任を感じろよ」と言われたときに、 用意していたように次のようなセリフが吐ける場合です。

「私の言葉に踊らされてしまうほど彼は自分の意思を持たない 子供だとでも言うのでしょうか。それこそ彼を馬鹿にしているでしょう。 彼は一人前の人間であり、自分の意思でそれを行ったのです」

で、このように言われたときに、

「そうだ、私は踊らされたんじゃない、自分の意思でやったんだ」

と応じてしまう人間が、アジテーターにとって 最も操作しやすい人間なのだと思います。

ええと、この話、趣向を変えてまた書きます。


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(C) Mai Tateno 立野 昧