[三原順メモリアルホームページ]

立野の三原順メモノート第6集(2005〜2012)


立野の三原順メモノート(45) (2005.12.31)

飛鳥部勝則『誰のための綾織』に関して

今年出版された飛鳥部勝則氏のミステリー小説『誰のための綾織』 (原書房、2005年5月)が、 三原順『はみだしっ子』と多数の類似点があることから、 11月に絶版、回収となりました。 マスコミ等でも報道がありましたので既にご存知の方が多いと思います。

絶版前に購入されていた方から本をお借りすることができ (ありがとうございました)、問題の本をしばらく前に読み終えましたので、 遅ればせながら立野なりの意見を記しておきたいと思います。 ミステリー小説のネタバレ的なことは書きませんが、あまり先入観なく これから『誰のための綾織』を読んでみたい方はお気をつけください。

噂として聞いていた頃

順を追って書いてみます。

『はみだしっ子』から大量の引用を持つ小説があるという 噂を最初に聞いたのは、夏ごろだったと思います。 最初のコメントとしては、 「かけだしの作家なら勢いでやってしまったのかも知れない。 何作も書いてきている作家ならスランプなのかも知れない。」 でした。

その後類似点比較サイト( http://www.geocities.jp/flutter_of_earthbound_bird/)や、 その他口コミで情報が入ってきていた訳ですが。

類似点が非常に多いのはよくわかりました。 一番の疑問は、「なぜこの作家はこんな引用をしてしまったのだろう?」でした。 決して駆け出しの作家ではなく、10作目との噂も聞きました。 『はみだしっ子』という作品に深い理解があれば、 言葉表現の拝借を一切しなくてもイメージは再構築できるはずです。

あるときふと口にしてしまった言葉が、実は三原さんの漫画の中の 言葉であったりするような経験は、三原ファンの方ならあるかも知れません。 ある日突然、呪いのように繰り返される言葉。 しかし、たとえばそんな風に思わず使ってしまったフレーズであれば、 ごくごく短いフレーズであるはずで、 このような長々とした引用にはならないはずです。

女子高生の書いた作中作のような構成であるような噂を聞くと、 かつて理解できなかった何ものかを 理解できないままに再配置して眺めてみると 何かわかるかも知れない…そんなようなことなのだろうかとさえ、 想像していました。

読了後

正直、腹が立ちました。

三原ファンの立場からとしては後述ですが、 それ以前に作家としてやっていいことの域を越えていると感じました。 立野は「ホットロードのこと (4)」で書いていますが、 昔の自分のアイデアノートに紡木たくさんのホットロードのイメージと重なる プロットがあります。95%は立野自身の言葉で、 最後の「帰りたい」というフレーズしか重ならないのですが、 自分ではギリギリくらいに思っていました。 しかし、『誰のための綾織』の『はみだしっ子』からの引用は、 そういったレベルとは全然違います。

そして、三原ファンの立場からとしてですが。

類似点比較サイトを読んだ際は、前後の文脈がありませんので、 ある意味事務的な気持ちで見ることができました。 しかし、作品として読んでいると、どのような文脈に置かれ、 どのような登場人物のセリフとして使われているのかわかりますので、 むしろ憤りを感じやすいです。

特に、P150辺りから6ページくらいに渡って 『はみだしっ子』からの引用とその掛け合いだけで進行しているくだりでは、 ファンとして精神的苦痛を感じました。

その中ではまず最初に、お葬式の最中にコメディ映画を見て、 そのままの気分ではしゃいでしまった子供の話が引用されます。 『はみだしっ子』におけるこのくだりについて、立野は 「立野の三原順メモノート(27)人の心を持たぬ子」で記していますが、 立野にとって三原順さんが唯一無二の作家となった場面の1つです。 『はみだしっ子』では、この場面で、ジャックの 「おまえの親がどうであろうと、おまえはもう自分の性格くらい自覚して直す 努力の出来る歳だな!」というセリフが続き、その手厳しさがまた良いのですが…。 『誰のための綾織』では、立野にとって大事なそのエピソードを あっさり引用した上で、(こともあろうに)そのエピソードを 今度はクークーに関する引用に繋げてしまうのです。 「あの頃、外の世界が私に見せるものは破滅だった」。 そして、今度は「カッコーの鳴く森」からの引用が続き、 また「つれて行って」からカインとアベルのエピソードの引用、 「料理の作り方」に関する引用と続きます。

立野は、『誰のための綾織』の蛭女に関するグロテスクな記述を読んでも 気分が悪くなるようなことは全くありませんでしたが、 上記のくだりを読んだ際にはあまりの嫌悪感に気分が悪くなり しばらく続きを読むことが出来ませんでした。

しばらくたって思うこと

読む前から(一般的に)思っていたように、 理解があれば表面的な引用にはならないはずと思います。 「人の心を持たぬ子」のくだりも、自分なら自分の体験を、 三原さんの言葉を直接使わずに書くと思います。

今一度『誰のための綾織』を開いてみても、 やはり引用部には嫌悪感があります。それはおそらく、殆どが イメージの合わない引用をされているからなのだと思います。 そういう意味では、『はみだしっ子』の何枚もの場面を不用意に コラージュしてしまった作品と言えるでしょう。

飛鳥部勝則氏が三原ファンかどうか…は どうでもいいことなのかも知れませんが、 『はみだしっ子』ファンではあるような気がします。 「あれ、これ、もしかして…?」くらいの引用であれば、 むしろ三原ファンも面白がったのではないかと思うのですが、 使ったカードが多すぎたのは、10作目という記念作で何か 思い入れが行き過ぎたのでしょうか。もはや想像の域ですが、 いずれにしろ残念な印象はあります。

良かったことは、ニュースになったことで、初めて三原さんの死を知り アクセスされてきた方がいらっしゃったことでした。

蛇足

ところでP118の「タンポポのように漂っていく」辺りのフレーズで 「あれ、これ、もしかして、中島みゆきの「彼女の生き方」?」と思ったのは 私だけでしょうか。そしてまた「どこかに行きたい」なんてのは どこにでもあるフレーズですが、 一緒に置いてあると「此処じゃない何処かへ」を思い出します。 ちなみにその昔中島みゆきの「此処じゃない何処かへ」を聞いたときに 「僕がすわっている場所」を思い出したなんてこともありましたが、 もっと関係ない話ですね(^^;)。

(2005年12月 立野昧)

立野の三原順メモノート(46) (2011.3.19)

デザート・イン

地震に揺れている昨今ですが、久しぶりに少し軽いネタで更新。

1981年「別冊花とゆめ・夏の号」に、 三原順みわく的大特集「熟れごろ売りごろ売れ残るころ…」という 妙な(? ^^;)特集があって、三原順さんが写真入りで出ていたりするのですが、 そこに「おんなの香り」という題で三原順さんの手書き文が掲載されています。

1981年「別冊花とゆめ・夏の号」
1981年「別冊花とゆめ・夏の号」
三原順みわく的大特集「熟れごろ売りごろ売れ残るころ…」より。

「(…前略…) 今一つ気分が乗らないので花屋へ行く。「ネギみたいなそれを!」と言ったら 「これはギガンギウムと言うのだ」と言われた。 (乾燥花を沢山おいている喫茶店)デザート・インのスキヤキ弁当にはネギが沢山入っている。 (…後略…)」

10年以上前に、札幌の電話帳で調べてたぶんここではないかと教えてくださった方がいて、 行ってみたことがあります。スキヤキ弁当はありませんでしたが、 昔ながらの落ち着いた喫茶店という感じのところでした。

OLD FASHIONED MUSIC&KITCHEN
Desert Inn
(2010年6月撮影)

去年(2010年)の6月に札幌を訪れた際も行ってみたのですが、まだありました。 周囲は「メルパルクSAPPORO」がなくなってしまうなど、変わりつつあるようですが、 10年前とあまり変わらない感じで残っていて、常連さんらしいお客さんが入れ替わり訪れていました。 札幌の地下鉄東西線「円山公園」を出てすぐ、六花亭円山亭よりちょっと手前です。 またいつか行ってみたいです。



(2011年3月 立野昧)

2012.2.28 追記)

残念ながら、札幌円山のデザート・インは、閉店された模様です。 情報下さった方、ありがとうございました。

2010年に、もう一度行っておいて良かったな…。


立野の三原順メモノート(47) (2011.6.8)

『夢の中 悪夢の中』とエリ・ヴィーゼル

先日、『夢の中 悪夢の中』が白泉社から文庫になるというお知らせがありました。

『夢の中 悪夢の中』表紙
三原順『夢の中 悪夢の中』、
主婦と生活社エメラルドコミックス、
1992年。
「さてそんな中、今週はじめ、ある貴重なコミックスの原稿が編集部に届きました。 タイトルは『夢の中 悪夢の中』。 三原順先生のご遺族と、原版元の主婦と生活社さんのご厚意で、白泉社文庫での刊行が可能となりました。 三原先生の19冊目の白泉社文庫となります。 9月発売に向けて準備を進めます。
昨年のカバーリニューアルにたくさんのご支持をいただいたことが、この結果につながりました。 あらためて御礼申し上げます。」
(白泉社コミ編ブログ「 『夢の中 悪夢の中』文庫化のお知らせ」(2011.4.28)より)

『夢の中 悪夢の中』は1992年に主婦と生活社エメラルドコミックスで刊行、 2000年に復刊ドットコム(当時ブッキング)さんから復刻版が出ていましたが、入手は色々と難しい状態でした。 以前、色々事情があって難しいと聞いていましたが、こうしてまた 多くの人に見てもらえる機会が出来るのは嬉しいです。

文庫19冊目…既に18冊あったのか…と振り返ってみると、確かにあります。

「昨年のカバーリニューアル」というのは、文庫のカバー装丁をリニューアルしていた件ですね (白泉社コミ編ブログ「三原順作品全18冊 新デザインカバーで登場!」(2010.10.22))。 書店で見ていましたが、さすがにカバーのために買いなおすのはしていない…。すみません、いや、 コミックスや愛蔵版や、既に何セットもあるので…(もごもご)。

収録作品は、以下の通り。

あと、「Mikhail Gorbachevさんが気になる」という半ページのイラスト+文章が入っています。 こちらの初出は知らない…。内容からして、ソ連崩壊前のペレストロイカ時代のようですが。

表題作「夢の中 悪夢の中」について、少々。それはこんな風に始まります。

「私は4人兄弟の末っ子で、母はいつも“家族をすごく愛している”ことを自慢していた。 その母に言わせると、私は“愛情を受けつける事のできない子”で、 そうして私は14歳の誕生日の翌日に5人目の精神科医のもとへ送り込まれた」

主人公は静かに読書するのが好きな女の子。けれど、3人のスポーツマンの兄を含め、 彼女以外の家族はみな大声で騒いだりするのが好きで、 彼女のお母さんは、一人で静かにしようとする娘を異常だと思っている。

「ええ!わかってますドクター。 私の家族が自分達を“正常”の基準の中心にいると確信していて、それを変える気がない事も。 でも彼らも決して異常ではない事もわかっています。 そして本当にみんなが私をとても愛してくれている事も。 ええ!私はもっと工夫して家族に心配をかけないように折り合いをつけてゆけると思います。」

この作品、登場人物の名前が出てこないのですよね。84ページくらいあるのに、 「母さん」「兄さん」「おまえ」のような呼び方しか出てこない。 それがまた、家族の密室劇のような雰囲気をかもし出している気がします。 そして、父親の存在が希薄です。団欒のシーンには父親も描かれていたりするのですが、 前に出ることはなく、セリフがまったくありません。やはり独特の空気です。

内容についてはこれ以上触れず、周辺的なところで。

物語中、彼女が彼に薦められて読む本があります。 これも確か、ずいぶん昔の三原順MLで教えてもらったと思うのですが、 第1部を読んだだけで何かを言うと後悔するからと言って第2部と第3部を渡されるあの本は、実在の書籍です。

エリ・ヴィーゼル(Elie Wiesel)著

村上光彦氏の名前に覚えがあると思ったら、 R.D.レインの『結ぼれ』や『好き?好き?大好き?』を訳していた方でした。 お世話になります。

彼が持っている本が、ちょうど第2部の『夜明け』のようです。 その後も何度か新装版などで出ているようですが、立野が読んだのは、 この3部作を一冊にまとめた『夜・夜明け・昼』(みすず書房、1984年)です。 ずっと課題のまま読めていなかったのですが、今回のきっかけで読んでみました。

『夜・夜明け・昼』表紙
エリ・ヴィーゼル著『夜・夜明け・昼』、
村上光彦訳、みすず書房、 1984年。

第1部『夜』は、アウシュヴィッツを生き延びた、著者の自伝的小説です。 1944年の春、ハンガリー(当時)の田舎町シゲトでユダヤ人狩りが始まる。 15歳だった著者は家族と共にゲットーに、そしてアウシュヴィッツへと送られる。 その後の物語は、特に触れないでおきます。 読んでみないとわからない、いや、読んでもわからないのかも知れないけれど。 「両親と、妹ツィポラの霊に」と捧げられたこの本は、解放後の病院で、ゲットーを出て以来、 初めて鏡に映る自分自身の姿を見たシーンで終わります。

「鏡の底から、ひとつの屍体が私を見つめていた。
私の目のなかのその屍体のまなざしは、そののち片時の間も私を離れることがない」

第2部『夜明け』は、解放後のパリでシオニストにスカウトされてパレスチナに行ったユダヤ人青年の話。 解説によると、これはフィクションで、著者自身にそのような経験がある訳ではないらしい。 1948年のイスラエル建国までの間に、イギリスとユダヤ人の間に このような戦いがあったことは知らなかったので、村上光彦氏の解説は勉強になりました。 イギリス海軍はユダヤ人のパレスチナ移住を阻止しようと、船をだ捕してキプロスの強制収容所に送っていた等。 『夜明け』の中の青年は、捕虜のイギリス軍人を報復として処刑する死刑執行人をやらされます。 青年は捕虜のイギリス軍人を憎もうと努力します。しかし夜明けと共に刑は執行。 『夜明け』のラストはこんな感じ。

「ぼくはその一片の夜を見つめた。すると、恐怖がぼくの喉もとを押さえつけた。 ぼろぼろの影のはしきれを綴ってできた、その黒い一片は、ひとつの顔を持っていた。 ぼくはそれを見つめて、恐いわけがわかった。その顔、それはぼくの顔だった」

第3部『昼』は、ニューヨーク国連本部内の事務所で働く新聞記者の話。 エリ・ヴィーゼル自身、そのような仕事をしていたようで、また物語同様に車にはねられたこともあるようで、 この話もフィクションであるが『夜明け』よりは自伝的要素が含まれているようだと解説されています。 内容ですが…お楽しみの方もいらっしゃるでしょうから、ここでは語らないにしておきます。 ただ、立野自身としては、割とすんなりと受け止めてしまって、 裏切られた感のようなものは強くなかったです。 予告されていたのもあるでしょうし、第1部・第2部で作品に吸い込まれてしまったまま、 善意など感じている余裕もなく第3部を続けて読んでしまったのもあるのだと思います。 第1部、第2部に、救いはありませんでした。第3部にはあったでしょうか。 解釈によると思いますが、自分にはなかったように思います。

エリ・ヴィーゼル氏は1986年にノーベル平和賞を受賞、まだご存命のようですが、 過度にイスラエル寄りであるということで、批判も受けているようです。 (cf. http://ja.wikipedia.org/wiki/エリ・ヴィーゼル)

さて、「夢の中 悪夢の中」では、 彼が「でも次に読む本は任せて! “善意”も時には有益だという話を」と言って、 結局その本が何かは不明ですが、次のコマに出てくるのが、やはりエリ・ヴィーゼルの 『幸運の町』村上光彦訳、みすず書房、1973年(La Ville de la change, 1962)なので、 それなのかも知れません。こちらは未読です。

さらに、トマス・ワイズなどの課題も埋まっていて、 三原順さんてやっぱり凄いな…と改めて実感していたりします。



(2011年6月 立野昧)

2012.2.27 追記) 遅くなりましたが『幸運の町』を読了しましたので追記です。
『幸運の町』表紙
エリ・ヴィーゼル著『幸運の町』、
村上光彦訳、みすず書房、 1973年。

『夜』『夜明け』『昼』と同様、主人公はアウシュヴィッツの生存者で、 作品の雰囲気も同じような感じです。 解放されてパリに住んでいた主人公ミカエルは、 密輸業者ペドロと友人になり、彼の協力により、彼と共に鉄のカーテンを越え、 ハンガリーの故郷セレンツェヴァロスに帰ります。 セレンツェヴァロスというのが、幸運の町という意味なのだそうです。 しかしミカエルは、警察にスパイとして逮捕され投獄され、 延々と立たされ続ける「お祈り」という拷問にかけられます。 物語はこの拷問とともに始まり、いくつかのシーンを遡りながら、続いていきます。

やはり救いのない物語です。しかし確かに、『夜』『夜明け』『昼』の3部作とは やや違った印象のラストへと展開して行きます。 まったく違うと言ってもいいかも知れません。 夜が、あとずさりをしていくのですから。 それは物語やや後半で、ペドロがミカエルに話す言葉で予告されていました。

「君は苦悩を除き去るのに、 それを極限にまで‐‐狂気にまで‐‐押しやろうとするんだな。 『われ悩む、ゆえにわれ在り』と語るのは、人間たちの敵になることだぞ。 『われ悩む、ゆえにきみ在り』と言わなくてはならんのだよ。 カミュがどこかで言っていたが、 不幸の宇宙に抗議するために、いくばくかでも幸福を作り出さなくてはいけないのだ。 それが辿るべき道を示す矢印だ。 その道は他者に通じている、しかも不条理を通らずに。」
(『幸運の町』、p204〜205)

「夢の中 悪夢の中」で「次に読む本は」と言われていたのは、 やはり『幸運の町』であるという理解でよさそうに思いました。

ところでこの本の中で、次のくだりが気になりました。 ミカエルがセレンツェヴァロスに戻ってみたかった理由を考え始めたところです。

ぼくはここへなにをしに来たのだろうか。いかなる呼びかけに従ったのだろうか。 当然のことだが、まず好奇心があった。つまり、振り返りたかったのだ。 ロトの妻は夫よりも人間的だった。 彼女もやはり、彼女の外側で生きていた‐‐そして死のうとしていた‐‐故郷の町の面影を、 胸に抱きしめて持っていきたくてならなかったのだ。 ぼくがあと戻りせずにはいられない欲求を感じたことについては、そんな気持ちもおそらく働いていたのだ。
(『幸運の町』、p248)

「はみだしっ子」の中で出てくる、塩の柱になってしまったロトの妻への思いは、 もしかしたらこの辺りにルーツがあったのかも知れないなと感じました。




立野の三原順メモノート(48) (2012.9.30)

「はみだしっ子」最終回について(4)

立野の家には、古い「花とゆめ」誌などが結構あります。 ずっと持っていた訳でなく、古本屋めぐりをして見つけたものや、 譲り受けたものなどです。 立野は「はみだしっ子」は連載では読んでいなかったので、 懐かしいというよりは、こんなだったんだ…という感じです。 ただ、せっかくの雑誌も、あるだけでろくに開いていないものも多かったです。

最近、本棚を新調して整理していて、ふと、 「花とゆめ」1981年17号を手に取りました。 「はみだしっ子」最終回の掲載号です。

雑誌で読んでいると、何か抜けているような感覚になります。 三原さんの作品は、単行本の際に加筆・修正が多いようであることは、 1998年の三原展をきっかけに知るようになり、 いくつかはこのサイトでも触れています。 今回、雑誌の最終回があまりに「足りなく」感じるので、 改めて見比べてみました。すると、雑誌掲載時は24ページのものが、 コミックスでは36ページになっていて、12ページも加筆されていました。 見比べてみたことを以下にまとめておきます。

これが全部抜けていたら、あっけなく感じる訳ですよね…。 大ゴマの追加は、間の追加のような感じですが、エピソードがいくつも追加されています。 狼と羊の話は「立野の三原順メモノート(21)狼への畏れと憧れ」 で触れたエピソードですし、グレアムが左手を押さえながらおばちゃまと向き合う絵は 「立野の三原順メモノート(18)グレアムの左手は何故痛むか」 の解釈に至る一助になったシーンです。 いすれも加筆だったのですね、と改めて認識。

もうひとつ、とっても驚いたのが、最終回であるということが、最後のページを開くまでわからないんです。 前号も見てみましたが次号最終回的な予告は何もなく、 雑誌の表紙にも何もなく、「はみだしっ子」の表紙には「Part・19 第27回」と普通にあるだけで、 最後のページを開くと、いきなり「長い間ご声援有難うございました」の文字が。 雑誌で読んでいた人はさぞかし目が点になっただろうなぁ(苦笑)。 狙ったのか何か、とにかく確かに物議をかもし出しそうな終わり方ではありました。

読み物的なページに「三原先生に「はみだしっ子」最終回インタビュー」なるものはあって、今後の予定は 「連載終えてからすぐ、アシスタントさんたちといっしょに、沖縄へ旅行に行きます。 帰ってきたら、ほっぽったままの本を、片っぱしから読みあさります。 締め切りに追われず、のんびりできます」と。 沖縄旅行、楽しかったでしょうかね(^^)。

なお、加筆箇所は前述のとおりですが、最後の5ページはまったく手が入れられてないです。 多くのエピソードが足されていますが、 最後にどう終わるかのイメージは、 しっかりとあったのではないかという気がします。

ところで、今回読み返してみて、自分なりにわかったことがありました。以前、 「立野の三原順メモノート(10)「はみだしっ子」最終回について(2)」 で触れた、時計のイメージです。「何を意味しているのでしょうか?」と当時は疑問を投げかけていた訳ですが、 今回読んでいて、すんなりと思ってしまったのです。

「5時までには帰ると言った」
「帰って来ると」

グレアムはこの世界に帰って来るのですね。 アンジーやサーニンやマックスやジャックがいる世界に。 今までと同じとは言えないのかも知れないけれど、とにかく「帰って来る」と言った。 そして、時計が5時をさして、物語は終わり、記述されない物語が始まるのです。

いろいろと異論のある方もいらっしゃるかも知れませんが、 立野としてはこの解釈で非常にすっきりしました。 改めて読み直してみて本当に良かったです。



(2012年9月 立野昧)

立野の三原順メモノート(49) (2012.11.13)

『悪魔と裏切者 ルソーとヒューム』

『悪魔と裏切者』表紙
山崎正一+串田孫一著『悪魔と裏切り者 ルソーとヒューム』、
河出書房新社、 1978年9月。

三原順資料室の『はみだしっ子語録 ── さまよう青春のみちしるべ』でも 紹介していますが、この本の著者紹介で、三原順さんの愛読書として紹介されている本の一つに、 「悪魔と裏切者」という本があります。 この本は、1998年の三原展の際に資料として展示されており、 「ルソーとヒューム」という副題を持つことはそこで知りました。

「ルソーとヒューム」という言葉にピンと来る人は多いでしょう。 「はみだしっ子」の「Part18 ブルーカラー」で、アンジーがグレアムの ごちゃまぜの考えごとを「その“ごちゃまぜ”の項目だけでも言ってみない?」といって 聞き出して並べられた項目の中に、「ルソーとヒューム どっちが可哀相?」というのが出てきます。 あまりに唐突に出てくるので、「はみだしっ子」の中でも取り分け難解な印象のフレーズです。

この本はいつかちゃんと読んでみたい…と思いつつ14年。 最近やっと読みましたので、メモに残します。

本の最初の印象は、「これまた悪趣味な本だな(苦笑)」という感じです。 帯のあおり文句が何ともはやな印象。



「本書は、デイヴィド・ヒュームとジャン−ジャック・ルソーとの争いの次第を調査し叙述せるものである。 争いといっても、論争ではなく、実は喧嘩であり感情の衝突である。 18世紀西欧のイギリスの一思想家とフランスの一思想家との個人的私的な争いであり、哲学の醜聞である。 哲学史外伝の、そのまた外伝ぐらいのところに位置せしめられて然るべきものである。 ……問題は、はたして、そうであるのか、そうでないのかである。 読者は本書を御覧あって、哲学者どもの醜聞に、腹をかかえて御笑い下すってよいのだ。 ……私は、世にもうれしく悲しい想いでこの本を書いた。 山崎正一」 (『悪魔と裏切り者 ルソーとヒューム』帯より)

実際に読んでみると、確かに思想的な論争は何もなく、単なる喧嘩です。 ルソーはヒュームを「裏切者」と呼び、ヒュームはルソーを「悪魔」と罵ります。 しかし、最後まで読み進めると、著者が単に悪趣味で醜聞を取り上げているのでなく、 書きたいことの動機があり本にしていることが伝わってきて、 妙に味わい深い読後感になります。

顛末の概観

先に簡単に顛末を書いてしまいましょう。

補足)細かいことは切りがないのですが、いくつかの不幸を挙げておきます。

ルソーとヒューム、どっちが可哀相?

ルソーの言い分は、彼の内的真実ではあるのですが、 実際には殆どが言いがかりに近い思い込みであったりして、 ルソーのために何がしか苦労をしているヒュームが可哀相という感じもします。

しかし、(思想史的にはルソーのほうが多分有名ですが)、 ルソーの人生は悲惨なことが多く、一方ヒュームは安定した生活を送ったようで、 その点でルソーの方が可哀相という感じもします。

ルソーが言い分を書いた40ページもの長い長い手紙には、愛情という言葉が何度か出てきます。

「これほど私に御親切をなさったのなら、私を愛していただきたいと懇願しているのであります。」
(『悪魔と裏切者』第6章「ルソーの言い分」、p103)
「このお優しい友は、私の財布がいっぱいであることはお心にとめられますが、 心がさけていることなどは大して気にもかけて居られません」
(『悪魔と裏切者』第6章「ルソーの言い分」、p110)

切実に愛情を求めていることが伝わってきます。

ヒュームもやり返し過ぎなところもありますが、 立野はどちらのパターンもやったことがあるような気もするし(^^;)、つまるところ、

「ケビンとタイラーの息子とどっちが可哀相か ハーブとロージーでせいぜい人道的な決着を着けてくれ」
「確かにボクの得意分野じゃないよ!失礼するよ」
(『Sons』第5巻 p107)

というトマスの台詞のように退席してしまいたいのですが(^^;)、 ここで著者の視点に触れてみましょう。

健全さの悪

著者の山崎氏は、本論争に関する限り、ヒュームの態度に辛辣な評価を与えています。

まず、ルソーの絶縁状を受け取った直後には、 既に『争論文書』をまとめて公表する作戦を立てていたと推察します。

そうしてこの手紙では、すでにヒュームは、ルソーとの間の一切の経過を、 両者の往復書簡を中心とした一つのパンフレットにまとめて、 これを世に公にしようという考えにとらえられていたことがうかがわれる。
(『悪魔と裏切者』第5章「宣戦布告」、p79)

そして、ヒュームのこの態度が、イギリス・ブルジョア・イデオローグの象徴であるように洞察します。

たまたま二人の人間が出会って、喧嘩分れをしたところで、たいしたことではない。 しかし、喧嘩はすでに、第三者に移っている。 第三者に、しきりと説いて廻ったのは他ならぬヒュームである。 少なくとも、ヒュームは、これに、異常な熱心を見せた。 公平な第三者――「傍観者」――こそ、当代のイギリス的理性の座席であったことを、 我々はここに想起すべきであろう。 ひとしく感情の論理を説いても、ヒュームはルソーまでには到り得ない。 そこには、イギリス紳士の常識があり、はっきりと社会の存在をみつめている イギリス紳士の体面というものがある。 ルソーにとっては、ひとたび、かちんと突き当たれば、ヒュームの如き偽善者づらは、 我慢ならぬものであったに違いない。 こちらは我を忘れて相手を懐き、口づけを与え、涙滂沱と双頬を洗っても、 相手はいささか当惑したという恰好で、体裁よく調子をあわせている始末である。 いな、相手もたしかに感激してはいるのだが、むしろ、こちらの方が、激しすぎるのだ。 そこにフランスのみやびに心惹かれながら自己の独立自尊を忘れない、 イギリス流のますらお振りをもうかがい得よう。 しかし、それにしても、このますらおは、いささか俗っぽく、金や名誉のことを、しきりに気にしている。 いな、これが、イギリス・ブルジョア・イデオローグの、ヒュームのまことの姿であったといった方がよい。 真理というものは、金や評判や名声という通路を経てのみ、顕現するのである。
(『悪魔と裏切者』第8章「『争論文書』の公表」、p136-p137)

確かにヒュームは、相手を理解することにはあまり情熱を感じられない一方、 第三者――「傍観者」――へのアピールには極めて熱心です。 ルソーからヒュームへの手紙が相手への訴えかけである一方、 ヒュームからルソーへの手紙は、いずれ公表され目にするであろう、 第三者への訴えかけであるように読み取るのです。

即ち、ヒュームは第三者という裁判官に提出すべき「法的証拠」たる文書を編んだのである。
(『悪魔と裏切者』第8章「『争論文書』の公表」、p138)

著者の主張は更に強まります。

またヒュームは、例の『争論文書』の公刊では、当時でも後世でも大いに非難されている。 たしかにこんなものを発表したのは悪い。 もちろん、彼は自ら公表したのではない。 だが、それこそまさに、くさいのである。 自ら手を下さないとは、卑怯の至りだ。 彼はその公表をダランベールに託した。 ダランベールは別に、公表してくれと頼まれたわけではなかった。 しかしヒュームは、公表してくれるな、と頼んだわけでもないのだ。 いや、まことは、ひそかに、ダランベールの如き人によって公表されることを期待していたのではないか。 まことに責任回避の偽善者だと、いうべき始末ではなかろうか。
(『悪魔と裏切者』第10章「健全さの悪」、p180)

エディンバラに自らはいて、しかもパリでこんなにうまく事が運ぶというのは、 実もってヒュームはうまい人にこれを託したものだといわざるを得ぬではないか。
(『悪魔と裏切者』第10章「健全さの悪」、p181)

なにか私は、ヒュームの善良さが、単なる善良さでなくて、 実証科学の方法と結びついた善良さだということを想わざるを得ないのである。 『文書』は、一々データを挙げて論証する実証科学の論文を見るような思いがする。 ここまでくれば、我々は、ヒュームの哲学との結びつきの糸に触れたことになろう。 哲学者の行動とその哲学との間には、はっきりした結びつきの糸があるのだ。 これは、ヒュームに於ける「善良さ」がいかなるものであるかということを、 うかがわしめると共に、またその哲学を支え推し進めてきたものが、 何であったかをうかがわせるものであるだろう。 一言していえば、彼の「善良さ」は、ルソーの忘恩に出あったとき、 あのような『文書』を執筆させるようなたぐいの善良さである、といおう。 この「善良さ」は、社会的行動の世界に於ける健全さである。 第三者というものが、ここでは心理的にも、認識論的にも、実際生活に於いても、重要な役割を演ずるのだ。 そして問題はこのような第三者を顧慮する「健全さ」にあるのである。
ルソーにはこうした「健全さ」はない。 しかしまさにルソーはこうした「健全さの悪」から免れている。 ヒュームは、こうした「健全さの悪」に気付いていない。 だからこそ、「善良」なのである。 だからこそ、こうした「健全さの悪」に気付きうるルソーは「凶悪」たらざるを得ぬのである。
(『悪魔と裏切者』第10章「健全さの悪」、p181-p182)

ヒューム氏は、相手が悪かったと知って、その親切をつくしたのも、また喧嘩をし、興奮したことも、 すべては「馬鹿な目をみたもんだ」と考えて、こんなルソーからは遠く離れた方がよいのである。 そうして親切をつくすなら、遠くから親切を尽くした方がよい。近くよっては危険である。 そしてこの危険とはまさに、ヴァニティが、最も深く傷つけられるという危険であるに他ならぬ。 自ら手を下さずして、人の首を絞めるという卑怯者が、自らのぞき込まなければならぬ深淵であるにほかならぬ。
(『悪魔と裏切者』第10章「健全さの悪」、p184)

著者の激しい口調に触れ、何とも言えない読後感になります。

「はみだしっ子」との関係


ヒュームの傍観者へのアピールは、裁判での陪審員へのアピールを連想させますが、 「はみだしっ子」の「Part18 ブルーカラー」時点では、 まだ裁判どころかグレアムが刺されていないですので、 直接関係付けるには若干無理がありそうです。

偽りもバレなきゃ真実
最後まで欺かれたままでいられたら幸福
知れば泥沼・泥仕合
(「はみだしっ子」「Part18 ブルーカラー」コミックス第9巻p125、文庫第4巻p339)

これは直接にはルソーとヒュームの顛末の描写でしょうが、 はみだしっ子の中の何かの出来事に映して言っているのかも知れません。 特定はしませんが、また一つ「はみだしっ子」に近づくことが出来た気がします。

なお、「Part7 裏切者」のタイトルとの関係ですが、特にないと思います。 『悪魔と裏切者』は1978年9月発行ですが、「Part7 裏切者」は1978年花とゆめ2,3,5号ですので、こちらが先になります。 『悪魔と裏切者』は、実は『ヒュームとルッソー――裏切者と悪魔』(昭和24年、創元社刊)が元にあって、 その再刊なのですが、あまり関係なさそうですよね。 更に余談ですが、1978年はルソーの没後200年で、そのきっかけで再刊されたそうです。 そして、今年(2012年)は、なんとルソーの生誕300年でした。



詳細補足

本書末の小林忠秀氏の解題も参考に、詳細と背景を補足しておきます。

1765年12月に二人が初めて会ってから、1767年5月にルソーがイギリスを去るまでの顛末は次のようになります。



(2012年11月 立野昧)

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