今年出版された飛鳥部勝則氏のミステリー小説『誰のための綾織』 (原書房、2005年5月)が、 三原順『はみだしっ子』と多数の類似点があることから、 11月に絶版、回収となりました。 マスコミ等でも報道がありましたので既にご存知の方が多いと思います。
絶版前に購入されていた方から本をお借りすることができ (ありがとうございました)、問題の本をしばらく前に読み終えましたので、 遅ればせながら立野なりの意見を記しておきたいと思います。 ミステリー小説のネタバレ的なことは書きませんが、あまり先入観なく これから『誰のための綾織』を読んでみたい方はお気をつけください。
噂として聞いていた頃
順を追って書いてみます。
『はみだしっ子』から大量の引用を持つ小説があるという 噂を最初に聞いたのは、夏ごろだったと思います。 最初のコメントとしては、 「かけだしの作家なら勢いでやってしまったのかも知れない。 何作も書いてきている作家ならスランプなのかも知れない。」 でした。
その後類似点比較サイト( http://www.geocities.jp/flutter_of_earthbound_bird/)や、 その他口コミで情報が入ってきていた訳ですが。
類似点が非常に多いのはよくわかりました。 一番の疑問は、「なぜこの作家はこんな引用をしてしまったのだろう?」でした。 決して駆け出しの作家ではなく、10作目との噂も聞きました。 『はみだしっ子』という作品に深い理解があれば、 言葉表現の拝借を一切しなくてもイメージは再構築できるはずです。
あるときふと口にしてしまった言葉が、実は三原さんの漫画の中の 言葉であったりするような経験は、三原ファンの方ならあるかも知れません。 ある日突然、呪いのように繰り返される言葉。 しかし、たとえばそんな風に思わず使ってしまったフレーズであれば、 ごくごく短いフレーズであるはずで、 このような長々とした引用にはならないはずです。
女子高生の書いた作中作のような構成であるような噂を聞くと、 かつて理解できなかった何ものかを 理解できないままに再配置して眺めてみると 何かわかるかも知れない…そんなようなことなのだろうかとさえ、 想像していました。
読了後
正直、腹が立ちました。
三原ファンの立場からとしては後述ですが、 それ以前に作家としてやっていいことの域を越えていると感じました。 立野は「ホットロードのこと (4)」で書いていますが、 昔の自分のアイデアノートに紡木たくさんのホットロードのイメージと重なる プロットがあります。95%は立野自身の言葉で、 最後の「帰りたい」というフレーズしか重ならないのですが、 自分ではギリギリくらいに思っていました。 しかし、『誰のための綾織』の『はみだしっ子』からの引用は、 そういったレベルとは全然違います。
そして、三原ファンの立場からとしてですが。
類似点比較サイトを読んだ際は、前後の文脈がありませんので、 ある意味事務的な気持ちで見ることができました。 しかし、作品として読んでいると、どのような文脈に置かれ、 どのような登場人物のセリフとして使われているのかわかりますので、 むしろ憤りを感じやすいです。
特に、P150辺りから6ページくらいに渡って 『はみだしっ子』からの引用とその掛け合いだけで進行しているくだりでは、 ファンとして精神的苦痛を感じました。
その中ではまず最初に、お葬式の最中にコメディ映画を見て、 そのままの気分ではしゃいでしまった子供の話が引用されます。 『はみだしっ子』におけるこのくだりについて、立野は 「立野の三原順メモノート(27)人の心を持たぬ子」で記していますが、 立野にとって三原順さんが唯一無二の作家となった場面の1つです。 『はみだしっ子』では、この場面で、ジャックの 「おまえの親がどうであろうと、おまえはもう自分の性格くらい自覚して直す 努力の出来る歳だな!」というセリフが続き、その手厳しさがまた良いのですが…。 『誰のための綾織』では、立野にとって大事なそのエピソードを あっさり引用した上で、(こともあろうに)そのエピソードを 今度はクークーに関する引用に繋げてしまうのです。 「あの頃、外の世界が私に見せるものは破滅だった」。 そして、今度は「カッコーの鳴く森」からの引用が続き、 また「つれて行って」からカインとアベルのエピソードの引用、 「料理の作り方」に関する引用と続きます。
立野は、『誰のための綾織』の蛭女に関するグロテスクな記述を読んでも 気分が悪くなるようなことは全くありませんでしたが、 上記のくだりを読んだ際にはあまりの嫌悪感に気分が悪くなり しばらく続きを読むことが出来ませんでした。
しばらくたって思うこと
読む前から(一般的に)思っていたように、 理解があれば表面的な引用にはならないはずと思います。 「人の心を持たぬ子」のくだりも、自分なら自分の体験を、 三原さんの言葉を直接使わずに書くと思います。
今一度『誰のための綾織』を開いてみても、 やはり引用部には嫌悪感があります。それはおそらく、殆どが イメージの合わない引用をされているからなのだと思います。 そういう意味では、『はみだしっ子』の何枚もの場面を不用意に コラージュしてしまった作品と言えるでしょう。
飛鳥部勝則氏が三原ファンかどうか…は どうでもいいことなのかも知れませんが、 『はみだしっ子』ファンではあるような気がします。 「あれ、これ、もしかして…?」くらいの引用であれば、 むしろ三原ファンも面白がったのではないかと思うのですが、 使ったカードが多すぎたのは、10作目という記念作で何か 思い入れが行き過ぎたのでしょうか。もはや想像の域ですが、 いずれにしろ残念な印象はあります。
良かったことは、ニュースになったことで、初めて三原さんの死を知り アクセスされてきた方がいらっしゃったことでした。
蛇足
ところでP118の「タンポポのように漂っていく」辺りのフレーズで 「あれ、これ、もしかして、中島みゆきの「彼女の生き方」?」と思ったのは 私だけでしょうか。そしてまた「どこかに行きたい」なんてのは どこにでもあるフレーズですが、 一緒に置いてあると「此処じゃない何処かへ」を思い出します。 ちなみにその昔中島みゆきの「此処じゃない何処かへ」を聞いたときに 「僕がすわっている場所」を思い出したなんてこともありましたが、 もっと関係ない話ですね(^^;)。