萩尾望都『ポーの一族』〜はるかなる一族に寄せて

(89年11月)


 この前の七月、月蝕歌劇団の芝居『原子心母シジフォス〜バンパネラの一族』を観てきた。「月蝕版『ポーの一族』」と銘打たれたこの芝居では、メリーベルとエドガーの替わりに安寿と厨子王がバンパネラとなりさまよっていた。

  1. 標識づけ、あるいはパトゥルギー
  2.  七十二年から別冊少女コミックでスタートした『ポーの一族』のシリーズは、 萩尾望都の人気を不動のものとした。第一作「すきとおった銀の髪」から第十 五作「エディス」に至るこの一連の作品群は、複雑な構成を持っている。何百 年もさまよい続けるバンパネラたちのエピソードがその時間の流れと違った順 序で発表されていて、読者はいやがおうにも不思議な時空に巻き込まれてしま う。そして実際の物語の始まりは、第六作目「メリーベルと銀のばら」に於い て初めて描かれる。

     一七四四年、四歳のエドガーと生まれたばかりの妹メリーベルは捨てられ、バンパネラである老ハンナ・ポーに拾われる。そして一七五四年、メリーベルと別れたエドガーはポーの一族に加えられ永遠に一四歳の少年のままとなる。三年後一三歳となったメリーベルをエドガーは自らポーの一族に加え、二人は生家であるエヴァンズ家を去る。  続く第七作「エヴァンズの遺書」は、七十三年後孫の代になったエヴァンズ 家にエドガーとメリーベルが再び訪れる話で、この後、二人は第二作「ポーの 村」に立ち戻り、偶然迷い込んだグレンスミスと遭遇する。ポーの村を後にし たエドガーとメリーベルは、養父ポーツネル男爵とその夫人シーラと共に第四 作「ポーの一族」に現われ、そこにおいてエドガーは最愛の妹メリーベルをポー ツネル男爵夫妻と同時に〝失い〟、新たに仲間に加えたアランと共に旅立つこ とになるのである。

     フラワー・コミックスに単行本として収録されたときに、この第四作「ポー の一族」が最初に配置される構成になった。その為、単行本で初めて読んだ読 者は、まず最初にメリーベルの消滅から読み始め、後のエピソードで時代をさ かのぼり、過ぎし日のメリーベルの姿を追うようにされた。意図的にそのよう に配置されたのかはわからないが、それがメリーベルのはかなさを一段と印象 づけているのは確かだろう。一三歳で時間が止まったままのメリーベル。永遠 に子供であることが、『ポーの一族』の一つのテーマであった。

  3. 夢の中へ
  4.  初期の萩尾望都の特徴は、その明るいミュージカル性にあった。それは彼女 が現実に対して希望や信頼を持っていたからこそ描けた物語であった。ところ が彼女が七一年に描いた「かたっぽのふるぐつ」は、全く希望のない暗い作品 であった。日本の現実〝公害〟が、彼女に石油コンビナートY市の少年たちの 物語を描かせた。この作品では、子供たちが現実に住んでいる街が、人々の幸 福と未来を約束した街が、確実に子供たちを裏切り、一人の少年を死に追いや るのである。これ以後萩尾望都は、『精霊狩り』という「異端狩り」のミュー ジカルを描いた後、ゆっくりと『ポーの一族』の夢の中へくだって行く。

     幻想の大人像に慣れ親しんだ大人たちが、幻想の子供像を子供に押しつけた。 戦後の日本は大量のハッピーエンドの物語を子供たちに聞かせ、そうした神話 が子供たちに世界を愛させた。ただ一つ、大人たちが忘れていたのは、そうし て育てられた子供たちが、やがては成長し現実に直面するということだった。 子供たちが育った「小鳥の巣」は、発達という幻想の名のもとに取り壊される 運命にあった。そうして追い込まれた世界は、かつて信じていた世界とはかけ 離れたものであっただろう。だから、恨みを込めて、萩尾望都はエドガーやメ リーベルやアランの時を止めた。故・寺山修司氏は語っている。「萩尾望都と いう漫画家が急激にクローズアップされたというのは、『あしたのジョー』が 死んで、七〇年の政治的激動期が敗北的な決着をみせたことと無縁ではない。 普通は、反体制派が挫折した後っていうのは、マルキ・ド・サドの小説の様な 背徳とエロスの文学が読まれるという傾向が歴史的に繰り返されてきた。萩尾 望都の出現というのは、一見すごく明るく見えることによって、逆に凄く暗い。 陰が全然なさそうに見えることによって、まぶしさが世界に照り返す暗黒的な トーテムを思わせるんだね。たかが少女の恐ろしさ!が運動に欠落していたこ とに人は気づく。信頼と共鳴がゾッとするような異化をもたらす」

     吸血鬼作品としてみた場合、『ポーの一族』の特徴は、吸血鬼の側が主人公 になっている点にあるだろう。たいていの場合、人間たちがとにかく吸血鬼を 倒すという構造になっている。バンパイアというのはもともと、生者の血をすっ て生き続ける死体を意味するものだったらしいが、吸血鬼信仰が明確な形をとっ てヨーロッパの諸地方に広まったのは、キリスト教の発展以後だという説もあ る。「キリスト教は霊魂にのみ不死の特権を与えた。これに対して、肉体の不 死の特権を要求したのが、いわゆる吸血鬼信仰だったというのである。確かに 吸血鬼の存在を信じた素朴な人々の潜在意識には、このようなキリスト教の霊 魂偏重主義に対する、生物学的本能の権利要求があったといえるかも知れない」 (澁澤龍彦『エロス的人間』所収「ドラキュラはなぜこわい?」より)

     『原子心母シジフォス』の中でミッションスクールの神父はこう言った。 「キリスト教をなめるなよ。我々は地上に平和をもたらしに来たのではない。 戦いをもたらしに来たのだ」

     実在した人物ドラキュラを恐れたのは、彼の敵国であった。それはちょうど 阿修羅の如き運命だったのかも知れない。仏教における阿修羅は最後まで天に 逆らった鬼のようになっているが、ゾロアスター教における阿修羅は太陽神で ある。阿修羅を崇めた民を征服した国の宗教が、彼を邪悪なものであったかの ように広めたのである。萩尾望都が後に描いた『百億の昼と千億の夜』では、 少女・阿修羅が永遠の時を生き、神々に戦いを挑む。

    「そうだ!
     ありとあらゆる文明は滅びへの道を歩んだのだ
     ヘリオ・セス・ベータ型開発!
     開発とはよくもいった
     来世! 浄土! 救い!
     そんなものは来やしない
     最初から神々は人間など愛してはいなかった
     ベータ型開発とは
     破滅と消滅に至る開発のことだったのだ!」

    『原子心母シジフォス』のクライマックスでは、主人公の少年が原子と化し て散った仲間のバンパネラたちを復活させる。そうして彼はいう。「バンパネ ラに神がいるとしたら、それはシジフォスだ!」

     永遠に岩を転がし続けるシジフォス。まさにバンパネラの神のようだ。

  5. この苦しみは目覚めの前の夢なのか?
  6.  『ポーの一族』は、七六年という発表当時のリアルタイムの話で終わる。そ こにおいて、アランが消滅し、エドガーは言う。「帰ろう……もう明日へは行 かない……」

     そうして、再び夢の中へとくだって行く。けれども、もはや遥かな国などど こにもないことはエドガー自身がいちばんよく知ってしまっている。第十二作 「はるかな国の花や小鳥」で過去のありえなかったような夢の中に住んでいる 女性にエドガーは言っている。「目を覚ましたら? あなたは夢を見てるんだ。 みんな現実に直面して悩んだり憎んだり悲しんだりしてるんだ。なぜ? あな ただけ幸せでいられるはず何かないよ」

     だから、もはや夢はかつて見たような夢ではなくなり、また現実は逆に夢の ようになって来る。現実ははかない夢のようなものであるという視点も必ずし も間違いではない。人生なんてたいていが百年も続かないドラマなのだから。 「エヴァンズの遺書」でロジャーが言ったように、人間の一生なんて実に不明 瞭なもので、伝記でもない限りじきに忘れ去られる。いや、それどころか一緒 に生きている人間たちにもわかられてはいないものだ。そしてけれど、人間の 一生は、それがどんな人生であれ、それが事実であるが故に、それなりの重み を持つものとなる。

     萩尾望都はおそらく、幻想の子供性を自走させることによって起こした反乱 の中で、夢としての現実という視点を持ったのだろう。後の作品にもこの傾向 はみられ、たとえば『エッグ・スタンド』では「自分が生きているのか死んで いるのかわからない」という少年が出てきたりする。そうして実の所、夢の接 触に依って、現実が活性化されていたりするのである。

    (一九八九年十一月・立野昧)

    萩尾望都・昭和二四年五月一二日福岡県大牟♣田市生れ。一九六九年になか よしから「ルルとミミ」でデビュー。七六年に『ポーの一族』の完結と『11 人いる!』によって小学館♣漫画賞を受賞。「あそび玉」など、早くから♣S F漫画を手がけSF系のファンも多い。八六年には短編『半神』が夢の遊民社 により演♣劇化され上演された。 ♣

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