最近、「戦後民主主義」や「戦後教育」や「平等」や「自由」を
なんとなく批判する言説を耳にすることが多くなった気がします。
確かに、日本の教育は民主主義を正確に教えていないのではないかとか、
民主主義はまだ完全なものではないとか、自分でも思うことはあるのですが、
話が逸れるのでここではそこまで立ち入りません。
民主主義も自由も平等も、人類が長い歴史の中で、時には国王の首を切り、
多くの代償を払って模索し、なんとか形にできた社会の指針です。
その指針を軽々しく否定するような言説にはよく注意して、
(それがなんとなく格好よく聴えても)
軽々と流されてしまわないようにしたいものだと、自分は思います。
ところで「平等」という言葉に立野が持つイメージが、
どうも日本の多くの人とずれていると感じる時があります。
それが、「自由主義における平等の概念」なのですが、確かに学校でこれを
ちゃんと教わったという記憶がありません
(聞いてなかっただけかも知れませんが ^^;)。
そこで、これについて(学校以外で勉強したことを反芻しながら)
立野の言葉で書いておこうと思います。
自由主義における平等とは「機会の平等 (same opportunity)」です。
平等にチャンスを与え、自由競争した結果、得られた報酬はその人のものとする、と。
結果として生じる貧富の差はあって良い、と。
そのような自由競争は社会を良い方向にしていくであろうという信念な訳です。
自由主義の理想は、平等に機会を与えることを要求します。
アメリカの独禁法(反トラスト法)が日本より厳しいのも、
それが自由主義の理想に反するからです。
自由主義は、談合その他新規参入者を排除する仕組み、
非関税障壁などを宿命的に憎みます。
アメリカが日本に要求している自由化とは、それらを除去し、
より自由主義の経済システムに移行すべしという
自由主義教義へのいっそうの忠誠を誓えという圧力なのだと思います。
自由主義の理想は、何らかの事情で自由競争に参加できない人には案外優しいです。
例えば、肉体的なハンディキャップのために平等な機会を受けれずにいる人たちには、
自由主義の理想はそれなりの配慮を行います。
日本ほど冷たくはないでしょう
(具体的に何がどう、と言われると、正確な比較は知らないですが…)。
日本では真顔で「家柄も才能のうち」などと公言する人がいますが、
当たり前のことですが、それは自由主義ではなく封建主義です。
とまあ、色々書いてきましたが、日本の自由化に関しては本当に日本にとって
良い選択なのかは私にはわかりません。
ヨーロッパはEUによって内部的には自由化が進みますが、
外部的には排他的になって行くのかも知れません。
アメリカは自由主義を貫いていますが、
社会的には多くの差別を今なお含む欺瞞の理想かも知れません。
日本がそれに追随することが本当に良い選択なのかは私にはわかりません。
ヨーロッパのように競争から協調へとパラダイムシフトしたくても
日本は近隣諸国に味方がいないために出来ないのでしょうけどね。
こうして、自由主義における平等の概念を手にすると、
今の社会が色々見えてくるのではと思います。