過ぎ去った日々はすべて哀しい

charlotte sometimes (Tateno's Diary 1998.1)

新しいものが下になります。(立野のトップページへ戻る)

Something Better
1998.1.4 (00:37)

新年の初めての日記になります。明けましておめでとうございます。

the cure の第2期シングル集『ガロア』が発売になってたんですね。 買ってしまいました。これについても書いてみたいんですが、 ここは一つ、立野のホームページのタイトルにも使っている one hundred years の話を書きたいと思います。

立野が the cure の音楽と出会ったのは、もうずいぶん昔、 渋谷のレンタルレコード屋さんでした。 もうこのレンタル屋はないです。 現在レコファンになっているところにあったと思います。

そこで the cure の 4th album『PORNOGRAPHY(邦題:殺戮の囁き)』 を借りて聴いたのが最初でした。何の前知識もなく突然借りたのですが、 なぜそのレコードを選んだのかは今となってはよく覚えていません。 多分、邦題の『殺戮の囁き』というのと(凄い邦題だ ^^;)、 帯に書いてあったことで聴いてみようと思ったのでしょうが、 何と書いてあったか覚えていません。

借りたレコードを聴いて、いきなり1曲目で捕まってしまいました。 これが「one hundred years(邦題:血ぬられた百年)」でした。

バタバタというやる気のないようなドラムの音。
静かに泣くギターの音。
ロバート・スミスの今にも崩れ落ちそうなボーカル。
そしてボルヘスの詩を連想させる歌詞。

「たとえ みんな死に絶えようとかまわない
黒い車の後席に座っている野心
そびえ立つビルには やることがあふれている
家へ戻る時間
ラジオに流れる 話

何か小さなものが 君の口からこぼれ落ち
そして 僕らは笑う
何か もっと よくなるようにと 祈る
何か もっと よくなるようにと 祈る」

立野は、この人間の血ぬられた百年を淡々と歌うような歌詞に刺激を受けて、 「Something Better」というコラージュのような8ページの作品を 描いたことがあります。著作権上問題がありそうなので公開しませんが、 「one hundred years」の訳詞と共に殺戮の歴史年表を載せるような作品でした。

そんな訳で、one hundred years という曲には、 あの頃の立野の思いが凝縮されているのですが、 その後に「something better」という言葉は 自分なりの含みをもった言葉に変わっていきました。

何もかもが今すぐすべて良くなると夢見るより、 出来ることから、少しでもいいから、自分の良いと思える方向へ変えていこう

今年がより良い年となりますように。


ガロア
1998.1.5 (00:03)

the cure の『ガロア』のことを書きます。 87年〜97年の第2期シングル集です。 あ、cureって、結構じとじとした音楽なので、 そういうの駄目な人にはあまり勧めないです。 ロバート・スミスさんは軽いポップソングのが多いようなことも言ってて、 実際そうでもあるのですが。

解説が面白かったので日本盤を買って良かった気がしました。 いや、ロバート・スミスさん本人が各曲にコメントを寄せていて、 もうこれが面白くって…。(^^)

例えば「catch」という曲は、事故で脳震盪を起こした影響で、 女の子の幻覚を何度か見て、ところが十数年もたって 本当にその女の子に会ってしまった時の歌だとか、 そういうエピソードがたくさん紹介されています。

一番笑ったのは、「just like heaven」の話。 幼なじみのメアリーという女の子と、 自殺の名所の崖っぷちで過ごした際どい一夜の歌らしいです。 いや、笑ったのはそこではなくて、 しばらくあとにロバート・スミスさんはこの女性と結婚するんですが、

「具体的なきっかけは、病気で寝込んでいたとき見舞いに来たメアリーに向かって 『君がいないと死んじゃう死んじゃう』とロバートが泣きついたことだったとか」
だそうです (^^)。うう、やっぱ、ロバート・スミスさん、大好きだなぁ (^^;)。 立野が女の子ならこういう人のお嫁さんになりたい…(爆笑)。


乗り過ごし
1998.1.5 (23:34)

電車の中で寝てて、降りるべき駅を乗り過ごしてしまった経験は、 多くの人にあるんじゃないかと思います。 では、起きているのに乗り過ごしてしまった経験は、 みなさんありますでしょうか。 実は立野の場合、寝ていて乗り過ごしたことより、 起きていて乗り過ごしたことの方がはるかに多いのです (苦笑)。

一人でぼーっとしてる時が危険です。 どうも、自分の世界に入り込むと忘れてしまうようです。 いつも通っている駅すらぼーっとして乗り過ごしたことがあります。 先日も、車内吊り広告を見ているうちに自分の世界に入ってしまい、 乗り換え駅についているのに気付かず、ぼーっと外を眺めて駅の名前を見て、 「えっと、あ、そう、この駅で降りるんだ」と思いだし、 ドアが閉まる直前に慌てて飛び出すという恥ずかしいことをしてしまいました (^^;)。

道を一人でぼーっと歩いている時なども、 自分の世界に入り込んでしまうことがあります。 こういう時は、知人とすれ違っても気付きません。 昔、親とすれ違っても気付かず、「なぜ無視したんだ」 と後で怒られたことがありましたが、無視したんじゃなくて、 本当に気付かなかったんです (そう言っても信じてもらえなかったのですが ;_;)。

立野の知合いの方、もし道ですれ違っても立野が気付かなかったとしても、 あんまり怒らないで下さいね…。 ごめんなさい。(と、先回りして謝っておこう ^^;)


えっと、どなたでしたっけ
1998.1.7 (01:35)

昨日の話の延長ですが…。 立野は人の顔を覚える能力に欠陥があるらしいです。 人の顔を覚えるのは苦手です。 しかし逆に、立野は人に顔を覚えられやすいようです。 昔、ある授業で一緒になる人たちの殆どを立野は知らなかったのに (授業にあまり行かなかったもので… ^^;)、 殆どの人が立野の顔と名前を覚えていたということもありました。 人の顔をよく覚えていない上に、道を歩いている時はぼーっとしているので、 大抵の場合、向こうから声をかけられます。 それで相手が思い出せれば良いのですが、思い出せないこともありました (^^;。 困ったものです。

もし立野が思い出せなくてもごめんなさい…。


暴力
1998.1.8 (02:30)

暴力は、暴力を増殖させる性質があります。 簡単に言うと、殴られたら殴り返す人の方が多いということですが、 自己触媒的性質も含まれます。

人間が人間を殺すことは、実は簡単です。 捕まって殺人罪にならないようにするにはそれなりに大変でしょうが、 物理的な話、殺すだけなら簡単に出来ます。 男性が女性を強姦することも、大抵の場合、簡単です。 もちろん、女性が男性を殺すことも簡単です。

「簡単に出来るのはわかっているけどやらない」

当然かと思う人もいるでしょうが、 「簡単に出来る」ことを理解していない人もいると思います。 今まで自分にはそんな能力はないと思っていた人が、 何らかのきっかけで暴力で他人を屈服させることが簡単に出来ることを 「発見」してしまうと、 たぶん自分に歯止めが利かなくなってやばいことになります。 そのような場合、より強い暴力(それは警察かも知れません)に 負けて自分が壊れるまで、暴力に自分が支配されてしまうでしょう。

何にも悪いことしていない人でも、 「簡単に出来ることがわかってないからやってないだけ」という人は、 いつそれを「発見」して豹変するかわからないので、 そういう人の方が実は恐いです(少なくとも立野にとっては)。

「わかっているけどやらない」という理由は人それぞれかも知れません。 やった場合のリスクと得るメリットを秤にかけてやらない人もいるでしょうし、 超自我の抑制のためにやらない人もいるでしょう。 いずれにしろ、「わかっているけどやらない」人の方が、 立野にとっては安心できます。

むむむ、何か変なこと書いちゃったかなぁ。 明日も関連した話題で書くつもりです。


まだ批判的な天使
1998.1.9 (00:24)

東京地方、凄い雪ですね。寒いし。 いや、雪国ではいつももっと凄いのでしょうけど、東京では珍しいです。 雪には辛い想い出があったりするのですが、それは今は書かないとして、 みなさんも事故などお気をつけ下さい。

今日はこの日記のページへのアクセスが多かったです。 過去の日記を遡って読んで下さった方のアクセスが含まれていますが、 日記ページへのアクセス記録を取るようになってから、観測史上最高でした。 いつも読み来て下さっている方も、今日初めて来られた方も、 ありがとうございます。

ところで、自分で過去の日記を振り返ってみて思ったのですが、 過去の日記は新しいものが下に来た方が読みやすい気がしました。 それでとりあえず1月の日記をそうしてみましたが、どうでしょうか。 この入口は従来通り新しいのが上です。

さて、タイトルの「まだ批判的な天使」ですが、残酷な天使とは違います (^^;)。 立野が二十歳ちょっとくらいの時のアイデアノートに記された言葉で、 亀和田武さんだったと思うのですが、「まだ地上的な天使」 という作品があって、それをもじってつけたものです。

ここでは二つのことを伝えたいです。

この世に批判不能なものはない
この世には完全なものは存在せず、価値観はすべて相対的です。 どんなに立派な人間でも立派な作品でも批判することは可能であり、 批判したい人はどこかしらアラを探せるものです。 三原順さんの作品を批判することも、 ビートルズの音楽を批判することも、 誰かのホームページを批判することも、 立野のこの文章を批判することも可能です。
批判には暴力と同じ自己触媒的性質がある
昨日の日記で、暴力は他者の暴力を誘発するだけでなく、 暴力に因われると歯止めがきかなくなるという自己触媒的な性質があると 立野は書きました。批判は反論を誘発します。そして、 「この世に批判不能なものはない」ことをわかっていない人が 批判によって他人を打ち負かすことが可能であることに気付いてしまうと、 批判する力に因われてしまい歯止めのない批判を他人にぶつけるという 性質があります。

批判は暴力だと言っているのではありません。 批判はしてはならないと言っているのでもありません。 批判する力には暴力と同じ性質があると言っているのです。 すべての力は暴力に転化し得ると一般化できるかも知れません。

中傷は言葉の暴力と言えるかも知れません。 論拠のある批判をすることは誰にでも簡単に出来るというものではないかも 知れませんが、中傷なら誰でも簡単に出来ます。 批判で相手を打ち負かすことと中傷で相手を傷つけることと、 どちらがより致命的かはわかりませんが…。

「この世に批判不能なものはない」

このことに気付いてから、立野は批判というナイフは無闇に振り回すものでなく、 コントロールして使わねばならないものだと思うようになりました。 真に批判すべきと思うものだけに向けるべきなのだと。

それでもやっぱり、不注意な中傷で他人を傷つけてしまったり、 つまらないところで批判というナイフを持ち出してしまったり、 批判したつもりもない人に「批判された」と思われてしまったり、 なかなかうまくは行きません。 この文章でさえ、読んだ誰かは自分が批判されたと感じるかも知れません。

おそらく、誰に対する批判でもなく何かを主張するなんてことは 不可能なのでしょうが、それでもとにかく 批判という魔力にとりつかれて無闇に振り回すことはしないようにしよう…。

「まだ批判的な天使」という言葉には、 だいたい以上のような思いが込められているのです。


富士山
1998.1.10 (23:25)

「雪が降った後の『清掃済み』みたいな空気が好きだ」

と言ったのは、三原順さんの『Sons』に出てくるダドリーです(細部うろ覚え)。 確かに、雪が降った後は空気がきれいになった気がしますよね。 それが一番嬉しいかも。

西の空が奇麗に晴れていると、東京からでも富士山が見えます。 ずいぶん昔のことですけど、何故か都内のアパートの屋上で、 女の子(と言っても年上ですが)と二人で缶ビールを飲んでいたら、 遠くに白く雪のかぶった富士山が見えました。

「あ、富士山が見える」

そう言ったのですが、九州出身のその女性はちっとも信じてくれません。

「もっと近くの山なんじゃないの?」

うーん、「うん、実は大山なの」とか言えば良かったろうか(おいおい ^^;)。

あの女性も、友人と結婚して、その後離婚して、 今も東京のどこかに住んでいるという噂を聞くけど、 今ごろどうしてるんだろうな…と、ふと思い出しました。


エッグ・スタンド
1998.1.12 (16:30)

昨日は知人のライブに行ってたりして、また日記を書き逃してしまいました。 立野より年上の方なのですが、働きながら音楽活動をしているのです。 なんだか、こういう方を見ていると色々刺激を受けます。

さて、今日の日記は、「暴力」「まだ批判的な天使」を書いていた頃に 思い出した話で、萩尾望都さんの『エッグ・スタンド』 という100ページの作品の話です。

第2次大戦中、ナチス占領下のパリが舞台。 踊り子をしながら暮らすルイーズという女の子のアパートに ラウルという不思議な少年が転がり込む。 二人の前にマルシャンというレジスタンスの青年が現れる。 テロに反対し、地下出版で細々とレジスタンスをやっている。 やがてルイーズとマルシャンは恋におちる。

ラウルという少年の異様さを説明するのはとても難しいのですが、 小さな村で父が政治犯として処刑され村八分となった母に溺愛され育ち、 しかし少年は母を殺して村を出た。 村を出た少年は工作員に使われ、要人に近付いては暗殺を繰り返してきた。

「人殺しってそんなにいけない?
ならどうしてみんな戦争してるの
あんただって戦争で自己紹介もしないで殺しあってきたんでしょう」

ルイーズは身分証明書を偽造していたが、ユダヤ人だった。 マルシャンと共に田舎へ逃げようとしていた矢先、 ゲシュタポのユダヤ人狩りにあって死んでしまう。

「おれが間違ってたよ…おまえが言う通りテロは必要だ…」
ルイーズの死に少年が関わっていたと思ったマルシャンは少年を射殺する。
「この世界は死んでいるのか? この苦しみは ただ 目覚めの前の夢なのか?」

立野は何故かこの作品と中島みゆきの「僕達の将来」という曲の イメージが重なっています。内容的にというより、雰囲気と 時期が重なっていただけという気もしますが。

「青の濃すぎるテレビの中では まことしやかに熱い国の戦争が語られる
僕は見知らぬ海の向こうの話よりもこの切れないステーキに腹を立てる」 (僕達の将来)
…奇妙な現実感の無さ、 目の前で起きていることがまるで夢のように思える感覚、 それがなんとなく近いんです。
「僕はママを殺して村をとびだしたけど
まだ自分が生きてるのか 死んでるのか わからない」 (エッグ・スタンド)

ところで、今日ここで書きたかったのは、 途中のマルシャンのセリフです。

「俺が戦争に行ったのは
君のような子が親と一緒の家に幸福に暮らすためだったのに
ラウルのような子が静かな村で育って学校へ行っていい子になるためだったのに
妻が産まれて来る子供のために その子供のためだったのに
戦争は一度始まったら終わりだ 平和! 正義! そんなものじゃない
戦争は戦争 破壊だ 平和は平和の中にしかない」

戦争は憎しみを再生産します。 戦争の果てに平和を築こうという発想はどこかしら無理があって、 潜伏した憎しみはテロリズムや将来の戦争の種にならないとも限りません。 何だか抽象的な言い方になってしまいますが、 旧ユーゴなんてまさに憎しみの再生産工場でしたよね。

「平和は平和の中にしかない」

この言葉は、立野の胸にずっと刻まれています。


巨乳サラブレット
1998.1.13 (22:08)

後輩とカラオケに行った。

「巨乳サラブレット入れて」

などと話している。ん? 巨乳サラブレット?

…どうやら「Can you celebrate?」のことらしい。何だよそれ。(^^;

しかし、先日の橋本首相の演説って凄かったですね。 「金融恐慌は起こさない」 と市場の不安感を否定する演説を行なってみたものの 何ら具体的対応策を示さなかったため 演説の終了とともに逆に市場に絶望感が流れ株価が下落。 そんな演説しない方が良かったじゃん…。


間違い電話
1998.1.15 (03:56)

昨日疲れていてやたら早めに眠ってしまったら、目が覚めてしまいました。 雪ではなく、雨が降っていたのかな。

昨晩早く、寝ようとしたところに携帯が鳴りました。

相手「…(無言)」
立野「もしもし?」
相手「あの」
立野「はい」
相手「あの」
立野「はい」
相手「****さんじゃ、ないですよね」
立野「あ、違います」
相手「あの」
立野「はい」
相手「間違えました…」
立野「あ、はい(と、電話を切る)」
以上の会話だけを見ると、普通の間違い電話に見えるでしょうけど、 切った後、何か変な気分になった。相手がなんとなく妙だったんです。

声は、女の子でした。聞き覚えはありません。 喋り方からすると、10代だろうと思います。 言葉ははっきりしていたけど、しゃべりに妙な間がありました。 まるで、最初から****さんじゃないことはわかっているように 落ち着いたゆっくりした喋り方でした。一番妙だったのは、 「間違えました」と言った後にも、電話を切る気配がなかったことです。

経験からすると、間違い電話をかけてきた人って、 いきなり切ってしまうか、「すみません、間違えました」と言って切るか、 いずれにしろすぐに電話を切りたがるものです。 でも、この女の子は切る気配がありませんでした。 眠かったので、立野の方から切ってしまいました。けれど、

もしかして、この女の子は誰でもいいから喋りたかったのではないか?
少しでも、喋った方がよかったんじゃないか?
切った後、そんな気がして来てしまいました。 そう思ってふりかえると、少し寂しげな声だった気もします。 真面目な感じの喋り方でしたし、いたずら電話には思えなかったし。

その後、電話はありません。 あの女の子は別の誰かに「間違い電話」を続けたのでしょうか。 わからないけど、元気だといいですね。

余談ですが、立野は携帯にかかってきても、こちらからは名乗りません。 理由は、私の「たての」というペンネームしか知らない人も、 本名しか知らない人もいるので、かけてきた相手が誰か分かるまで、 どちらの名前を名乗ったらいいかわからないからです。 立野にかけて下さる方、そのあたり察してくださると幸いです。


こんこん
1998.1.16 (00:13)

いや、今日は雪がよく降りました。まだこれから降るのかな?

「雪やこんこん あられやこんこん」
もう、ずんずん降り積もってます。みなさんご無事でしたでしょうか。 立野は今日は出かけませんでした。猫ですね(^^;)。

ところで、この「こんこん」て何でしょう? やはり、雪が降るさまを表した擬音でしょうか。 それとも、「こんこん」と咳き込んでいるんでしょうか(まさか ^^;)。 きつねの鳴き声を「こんこん」と表すこともあるようですね。 実際、きつねが鳴いているところって聞いたことないんですけど、 きつねが「こんこん」言ってたら龍角散をあげるといいのでしょうか。 あ、それは「ごほん」でしたね…。

「こんこん」と言われると、思わず「入ってます」と応えたくなる人も いるかも知れません(いないか ^^;)。 「こんこんと眠る」なんて表現もありますよね。 殆ど昏睡状態のような眠りを連想します。 そう言えば、

「こんこん こんこん 釘を刺す
こんこん こんこん 釘を刺す
畳が下から笑ってる」
という真っ暗な歌もありました。山崎ハコさんの「呪い」という曲です。 凄い曲でしたね。『人間まがい』というアルバムに入っています。

よくわからなくなってしまいましたが(^^;)、 明日も気をつけましょうということで。では。


JavaScriptの怖い話
1998.1.17 (02:45)

「だからそれは今時JavaScriptオンでネットをウロウロするような 無防備な奴が悪いんだ」

立野が入っている、とあるメーリングリストで、 ホームページにおけるトラップの話が出て、 そこでの、とある人の発言です。

「本人が意図しなくても第三者の掲示板に大量の書き込みをしてしまう 仕掛けが世の中にはいくらでもある」

文脈としては、「そんなこともわからないような奴が ファイアウォールの管理者なんかやるんじゃない」という流れなんですが。

そんなこと出来るんだ…と、考えてみると、簡単に出来ちゃいました。 詳しいことは書きませんが、 あなたが JavaScript ON の状態でAというサイト (トラップが仕掛けられている)にアクセスしただけで、 Bというサイトにある知りもしない掲示板に知らないうちに 言ってもいない書き込みをさせられてしまう可能性があります。 Bの掲示板の人(Bのサイトの管理者も含めて)は、書いた人が Aというサイトでトラップに引っかかったことを知る由もありません。

やっぱり JavaScriptってルーズすぎて怖いですね。 Javaみたいなセキュリティモデルを作ることが出来ないんでしょうか。 インターネットが学術ネットだった頃は 「出来るとわかっていてもやらない」人が殆どだったのですが、 今は出来ればやっちゃう人もたくさんいます。 それはもうしょうがないことだから 危険なことは出来ないようにしないといけない筈なのに、 警告もせず修正もせず、派手な演出の Dynamic HTML で更に JavaScript を使わせようとしている。トホホ。

立野は通常 JavaScript を OFF にしていますが、 こんなことが可能だと目の当たりにして、 サーチエンジンなどを使って知らないサイトに行くときには 絶対に ON にはしまいと改めて思いました。

ちなみに立野のページにはトラップ仕掛けてないですよ(^^;)。 いや、疑わしければ JavaScript を OFF にしていらして下さい。 どうせ立野のページは ON でも意味ないので (チャットではちょっと使ってますが)。 あ、でもそのうちスタイルシートは使おうかなとちょっとだけ考えています。


パセリ、セージ、ローズマリーと紅茶タバコ
1998.1.19 (00:47)

ホームページで日記を始めるよりしばらく昔に、 まるでこの日記のような駄文を流すメーリングリストを個人的に作って 内輪の知人に流していたことがありました。 実は疲れているときなど、 その過去の文章をこの日記に使いまわしていたりします (^^;)。 今日の日記も使いまわしなんですが、 かつてFOSSAにも別のMLにも流したことがあるので、 使い回しというより、たらい回しかも知れませんが…(^^;)。

どうやら、死と深い関わりのある薬草らしいという話も聞きました。 どなたか、実際に試してみたという方いらっしゃいましたら、 話を聞かせて下さいね。(決して爆笑しませんので ^^;)


勘違い平行棒
1998.1.20 (00:59)

えっとまず、JavaScriptの話についてフォロー。
トラップに対する対策法としては、 JavaScript を OFF にするのがいいと思いますが、 やっぱり使いたいという人は、ブラウザの設定で 「FORM 送信時に毎回警告を出す」ようにしておくと良いかもしれません。 「FORMでクレジットカード番号とか送っちゃ危険よ」 って警告が出てくる奴ですが、 こうしておくと JavaScriptが陰でこそこそフォームを送信しよう としても警告を出してきてくれるので、知らないうちに投稿させら れてしまうことを避けられます。

んで、今日も実は使い回しネタなんですが、勘違いシリーズを…。

「踊り食い」を、「踊りながら食べること」 だと思っていたのは私だけでしょうか? (^^;)

「ぶしょうひげ」を、「戦国武将のようなひげ」 だと思っていたのは私だけでしょうか? (^^;)

あ、あと、人に聞いた話ですが、

アニメ「ニルスの不思議な旅」 の歌が、「♪ Oh! カモ&ニルス 旅に出かけよう 準備なんかいらない」 だと思って、モルテンのことをカモだと思っていたのは私だけでしょうか?
というのもありました。(^^)

みなさんも、そういう勘違いありませんか?


震災のこと
1998.1.21 (04:05)

日記に書きたいことは沢山あるのですが、 いざ書こうという時に忘れていて違うことを書いちゃうことがあります。 思い付いた時にメモしておくべきでしょうか。(^^;)

阪神淡路大震災の話は、当時の状況も今の状態も詳しくないので 書いてもしょうがないかと思ったのですが、 一度も書いたことがないのでやっぱりちょっと書きます。

あの日の朝は、6時くらいからニュースを見ていましたが、 比較的早い段階のニュースから 既にNHKのカメラが捉えた地震発生の瞬間や倒れた高速道路などが映し出され、 けれど「死傷者百数十人」という報道でした。

「建物が倒れる程の地震で死傷者百数十人で済むのか…。 日本の街も強くなったな」

そう思っていました。じきにそれが大間違いだと気付く訳ですが。

いえ、強くなったとは思います。関東大震災の時は数万人が 亡くなったのですから。ただ、色々な意味で悔しかったです。

以前、立野が「悔しかった」と言ったら、 「そうそう、マスコミの報道はひどいよね」と応えられたことがあるのですが、 もっと色々な意味で悔しかったんです。 地震なんかで建物が倒れるのも悔しかったし、 つまらない手抜き工事をされた建物のために人が死ぬのも悔しかった。 救助や物資の輸送がままならないのも悔しかったし、 それを更にマスコミの中継車が妨げているのも悔しかった。

対岸の火事を面白がって見ている視聴者をさけずむ人もいましたけど、 立野はそういうのは割とどうでもいいと思っていました。 ただ、救助が現在進行形で進んでいる現場に着飾って行って
「このような大地震が首都圏で起きたら」
などと報道し、
「神戸でなら起きてもいいのか」「帰れ」
と罵声を浴びせられたキャスターとかは、 何でそんなことをしてしまうのだろうと、悔しいというか悲しくなります。

つまるところ、人間がこの程度のものでしかないと突き付けられた気がして 悔しかったのかも知れません。 ダドリーじゃないけど、「たかが人間でしかない」んですよね…。 しかし、我々は何かを学ぶことは出来ないんでしょうか。

「人命救助をしてみろ ヘリコプター」
と後にキヨシローは歌いましたが、被災地上空を飛び回った たくさんのヘリコプターの爆音のために、 瓦礫の下から助けを求める人の声がかき消され、 救助の妨げになっていたそうです。 そのことを、自己批判として報道したマスコミがどれだけあるでしょうか。

震災直後、大手広告代理店には多くの会社から
「この震災にどう対処すれば、よい企業イメージをPRできるか」
という問い合わせがあったそうですが、 結局、実際に何をしたかより、関係のない大多数の大衆に どう思われるかのが重要なのでしょうか。

日本では欧米のようにボランティアが発達しておらず、 不慣れなボランティア活動に苦労する中、 田中康夫氏は、小回りのきくバイクで単身被災地に入り、不足しがちな 下着類などを配って回る独自のボランティア活動を展開しました。 「現地に女友達がいたからだ」などとも言われたようですが、 単純に素晴らしいと思います。

しかし田中康夫氏は、被災地でダイエー(系の店?)が しなびたリンゴを高値で売っていたことをSPAの連載 「神なき国のガリバー」で書いたため、ダイエーの圧力で この連載を切られてしまいました。

大衆はガラスケースにしまい込む。 そして我々はどこへ行けばいい?

…とまあグレアム化したりしないまでも (^^;)、 震災が残したものは何だったのかを時々思い起こしてみることは 悪いことではないとは思うのです。


ごめんなさい
1998.1.22 (00:37)

日記の話題、重い話題で書いたり軽いギャグを挟んだり、 ちょっとはバランスを考えているのですが、 深い話題で書いているときの方がアクセスも多いし反響もある気がします。 気のせいでしょうか。今日は短く…。

別に誰に謝ることでもないんでしょうけど なんとなく罪悪感にかられたので謝っておこうかと (^^;)。

震災のあった1/17の夜、ライブハウスで踊っていたのは私です。 ごめんなさい…。


くらげ
1998.1.23 (00:17)

今日は自宅が断水です。 水が使えないって不便ですね。 そういえば、神戸の震災のとき、 就職してポートアイランドに住んでいた友人がいて、 しばらく連絡が取れなくて心配したのですが、 北海道の実家に疎開のように(?) 帰省していたことがしばらくしてわかりました。曰く、

「水道が復旧したら帰る」

とのことでした。なるほど。

全然話は変わりますが、ななしのさんの日記面白い… (^^)。 ヘンな人の話も面白かったです。 クラゲ飼うのって結構(?)流行っているみたいですよ。 天然モノと養殖モノがあって、天然モノのほうが肉厚なので内蔵が見えにくく、 養殖のほうが見ていて美しいんだそうです。むむむ。

エロイシルの話も面白かったです。それは驚きますね。 ところで、街中で「おこと教室」と書いてあるのを見て、 「おとこ教室??」と驚いたことがあるのは私だけでしょうか。

更にもっと驚いたことがあるんですが、

<こっそり> <FONT FACE="いたいけな女の子には見えないフォント">
街中で米屋の前を通りかかったとき 「全国共通おこめ券」 と書いてあるのを見て同じ誤読を (以下略)
</FONT> </こっそり>
なんてこともありました。いや、驚いた。(^^;)

注) 本文章は Netscape 9999999.9 以降でお読み下さい (笑)。


改めて三原順さんの死に涙する
1998.1.24 (01:52)

三原順ページにアップした内容とダブるのですが、 今日の立野はすっかりこのことにとらわれているので…。

今日、立野の三原順メモリアルホームページを見たという方からメールがありました。 三原順さんが亡くなられた頃に直接関係のあった方です。

その方の話によると、三原順さんは「ビリーの森ジョディの樹」の完結後に 「はみだしっ子」の続編を描く予定だったそうです。

立野はこれを知って、泣いてしまいました。 三原順さんは、どんなにそれを描きたかったことか。 どんなに多くの読者がそれを読みたかったことか。

「ビリーの森ジョディの樹」はその一部でも読者に伝えることが出来ました。 しかし、「はみだしっ子2」はまったく幻で終わってしまいました。 決して売らんがために続編を描く人ではありません。 それだけ、三原順さんにとって描きたいという欲求があったからこそ 「はみだしっ子2」を描きたいと語ったのだと思います。 「はみだしっ子」は、三原順さんが学生の頃から作っていたストーリーで、 おそらく作品の中に使われなかったプロットもあったでしょうし、 成長した彼らの姿も思い描いたりしていたのでしょう。 初心にかえり、それら使われなかったプロットやその後に貯えてきた 自分の思いを詰め込んで、 もう一度あの4人を描いてみたかったのではないでしょうか。

どんな作品になったであろうかを考えるよりまず、 三原順さんがどんな気持ちで「はみだしっ子2」を描きたいと語ったのかを 考えるだけで、立野は泣いてしまいました。

今の立野は、三原順さんの死を知ったときの気分です。


僕は天使に嘘をつかない
1998.1.26 (21:37)

えっとまず「はみだしっ子2」の話、どうやら「続編」というより 元の作品が未完のため本当のラストを描きたかったということらしいのですが、 この話はいずれまた三原順ページにて。

「僕は天使に嘘をつかない」というのは松苗あけみさんの漫画の タイトルなのですが、知らない人のが多いでしょう。 生徒会館がラブホテル化している (笑) 無茶苦茶な高校の しょうもない生徒会長が純情可憐な女の子に憧れるという話なんですが、 今日の日記にあんまり関係ありません (^^;)。 サーチして来た方ごめんなさい。

ななしのさんの日記が面白いという話を書いたら反響があったようですが、 リンクしている日記のページはみんな読んでいますからねー (^^)。

ところで、時々メールをやりとりしていた人 (女性・20代後半) と 「交換日記リンクの人達が若いですね」という話になって、

みきちゃんが高校1年生で一番若いですが、 日記に授業中に描いたというかわいい落書きがアップしてあって、 いやぁ、いたいけですねー (^^)。
と書いたら、
たてのさんってもしかしてロリロリなご趣味の方ですか(^_^;)?
と言われて爆死してしまいました (^^;)。

それで、

あの (みきちゃんの) 絵はまるで一昔前の小学生が描きそうな絵だったので 見てみて「うひゃー、いたいけだー」と思ってしまったのです (^^)。
成熟した女性も好きですし、年上もいいです。
まだ言葉をほとんど知らない子供と遊ぶのも好きです。 言葉を知らない子供って、妙な差別意識が植え付けられていないので 小学生くらいの子供より接しやすかったりします。
などと説明のメールを書いたのですが、 つい勢い余って、
小学生くらいの女の子でも、可愛いなと思うことはあります。
とか、
女子高生も単純に可愛いと思います。女の子はみんな可愛いです。
でも、 身体はやっぱり成熟した女性の方が…。(おいおい ^^;)
とか書いたら、メールの返事が来なくなってしまいました (^^;)。 アブナイ人だと思われたんでしょうか。 たてのはすべて正直に書いただけなのに… (よりやばい???)。くすん。

もしかしてこれを読んでくれるかも知れないので書きます。

たてのはアブナイ人ではありません。

…って言う人に限ってアブナイ人だという突っ込みはなしね。(爆)


トップページのアクセス速くなりました?
1998.1.28 (19:50)

立野のトップページや訪問者ページの読み込みが遅い原因、 NetLaputa の SSIの #include や #flastmod が異常に 遅いせいじゃないかと思ったので、 それらの機能を使わないようにトップページや訪問者ページを 改良しました。アクセス速くなったでしょうか。

最終更新日を #flastmod で自動的に出していたのも取りましたが、 それよりやっぱり速度ですよね。 でも、なんで SSI がこんなに遅いんでしょう…。>ねっとらぴゅた様

さて、先日書いたメールが来なくなった話、 立野の日記登録とちょうど入れ違いにメール届いていました。 呆れられてはいなかったようです。(^^)

そういえば、立野は子供を子供のように扱うのが苦手です。 赤ん坊をあやす言葉も苦手です。 一緒に遊ぶのは、割りかし好きなんですけど。

なんかちょっとそういうことを思い出したんですが、 またいつか書きます。


はんぺん×高さ÷2
1998.1.30 (03:07)
またしても昔のネタの使い回しです。1、2年前に書いたものです。 ちょっとほのぼの路線ですが、立野の危なくないイメージのためにも (変な日本語?)載せようと思います(笑)。

両親が旅行中に、親戚からクール宅急便が届いた。

内容物 「はんぺん」
と書いてある。

あけてみると、大磯のカマボコ屋さんかなにかの、おいしそうな、 はんぺん・かまぼこ・ねりもの(なんというのか知らない)、であった。 しかし、賞味期限が、両親が旅行から帰る前に過ぎてしまう。

どうしよう…
かまぼこは、切って食べるだけ。しかし、はんぺんは?

#いざとなれば、どれもそのまま食えないこともないが… ^^;

記憶に残っている我が家での「はんぺん」の食し方は…。

  1. ちょっと焦がして、醤油つけてたべる
  2. おでんに入れる
くらいしか思い出せない。
ねりものの処理も考えて、おでんにする。 幸い、冷蔵庫に大根がちょっと残っている。

買物に行く。 おでんセットひとつと、卵10個、など買う。ついでに、 納豆3パック、豆腐1丁、油揚げ、唐揚げパックなどを買う。
一人分を作れば良いのだが、そのとき私の頭は、

面倒なので3食ぶん作っとこ
だった。毎日作るのが面倒なのである。

家に帰って、まずご飯を炊く。1食1合として、3食分3合、 多めに4合炊いとこう!

#今思えば、この辺で自分の計算の無茶さに気づくべきだった…。

ご飯のスイッチを入れると、味噌汁を作り始める。 豆腐と油揚げを切ってぶち込むだけなのでカンタンだ。

豆腐も油揚げも全部入れちゃえ! (←これもむちゃ)
しかし…。ダシが見つからない。 毎日のように味噌汁作っているのだから、その辺に絶対あるはずと 思うのだが見つからない(注:味噌はダシ入りとは書いてなかった)。

ふと見ると、今は殆んど使われていないパン焼き用のオーブンの中 にこまごましたものが詰め込まれている。

ここか!?
あけてみる。しかし、ない。 でも、あれ?
何故こんなところに、綿棒が!?
我が家は謎が多い。

結局「めんつゆ」をちょっとたらして代用し、 たっぷりの味噌汁が出来上がる。

まあ、3回飲めば終わるだろう (← 無理だった)
続いて、卵を茹でながら、大根を切る。

おでんに卵と大根は不可欠である。 卵と大根の入っていないおでんは、クリープしか入っていないコー ヒーのようなものだ。

卵は買ってきた10個のうち6個を茹でるが、冷蔵庫に4つ残って いるのを発見し、結局それも入れて10個茹でる。(←無茶すぎ)

大根は、柔らかくなるよう、早めに別に煮込むことにする。 冷蔵庫に梨が2つ残っていたので、1つむいて食べようと思う。

ちゃっぽーん
(↑間違えて剥いた梨を大根の鍋に放り込んでしまった音)
ちょっと煮込んだ梨も結構おいしい(信じないで下さい ^^;)。

鍋に「おでんの素」を入れ、茹であがった卵や、 上記送られてきた練りものなどを加えると、とろ火で煮込み体制に入る。
と、ご飯が炊けてくる。

ハラヘッタよ〜
ご飯の炊ける時の香り…。 えも言われぬいい香りと思うのは、私だけでしょうか? (特に、お腹減ってるとき)

おでんの出来るのなど待っていられない。 カマボコ切って、納豆と味噌汁とで、とにかくご飯を食べることにする。

関西の方にはウケの悪い納豆。 しかし、価格/栄養比的にはたいへん優れていると思うのです。 未だに1パック40〜50円。

ご飯・味噌汁をおかわりして食べ、デザートに梨。お腹はいっぱいだ。

ふと…。
鍋いっぱいのおでんがグツグツ言っている。 しかも、冷蔵庫には結局まだ使っていない「おでんセット」と、 唐揚げパック。カマボコはたくさん食べたけど、・ハンペン・ねりもの も殆んど残っている(鍋に入れたものも、結局食べていないので、 すべて残っているということか)。

まあいいや、明日食べよっと
そして、明日という日はやってくる。 しかし、朝食は唐揚げ・納豆・ご飯・味噌汁でマンプクになる。
出かける → 昼、夜と、外食してしまう。
帰ってくる → 鍋いっぱいの「おでん」が優しく待っている
…。

腹は減っていないが、少しだけ、おでんを食べる。 ご飯が山のように残っているので、どんぶり3つに分けて冷蔵庫にしまう。 次の日はずっと家にいて3食とも家で食べる。 それでも残ったので、その次の日もまた食った。 結局、自分が用意したものは、5回食ってもまだ余っていた。

☆☆☆☆ そして私は思ったのだ ☆☆☆☆
よく漫画とかで、何かに熱中するあまり (あるいは単に貧乏学生とかで ^^;)、 ロクに食事もしていない一人暮らしの男性に、
「作り過ぎちゃったの」
と言ってさりげなく差入れをする女性。
ナントナク、いい雰囲気になってしまったりするのだが…。
しかし、彼女は本当に作り過ぎただけかも知れない!
自分だって、食っても食っても「ねりもの」や「おでんセット」や 「ゆでたまご」を投入する度にすぐまたいっぱいになってしまう魔法 の「おでん鍋」や、食っても食っても存在し続ける 「てんこもりドンブリ」を前に、何度これらを
「作り過ぎちゃったの」
と持って行こうと思ったことか。
だから、アパートの隣の女性が「作り過ぎちゃったの」と言って くるようなシーンは、特に疑ってみるべきである。

そう、彼女は料理における量の問題に疎いだけなのかも知れない。

私だけだろうか…?


チャイニーズ・スープ
1998.1.30 (23:40)

NHK FM Music Pilot を聴いています。 今日はグルメ特集だったんですね。

「チャイニーズ・スープ」という曲、 松任谷由実のカバーですよね? ところで、この曲のイメージ、新井素子さんの小説 『ひとめあなたに…』のせいで、 怖いイメージがあるのは私だけでしょうか? (^^;)

みんとっちが昨日の立野日記の納豆の話に反応していますね。 ありがとう。 12月25日の朝、たての家に来た某関西在住のお嬢さんは、 納豆を出されて困惑しておりました (^^;)。

PS. ところで、みんとっち、日記が 1/31 になってる…(^^)。


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(C) Mai Tateno 立野 昧